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天津の歴史的建物(2)溥儀をめぐる五人の女性

第50回 2013年05月

 前回「天津の歴史的建物」では、天津という街が話の中心であった。そこで今回は、清朝皇帝・溥儀と天津の静園で共に暮らした婉容、文綉を中心に、溥儀をめぐる女性たちの生涯を見てみたい。

婉容と溥儀

 1924年、溥儀は馬玉祥の起こしたクーデターにより紫禁城を追われる。彼は一旦北府へ移った後、1925年日本公使館三等書記官・池部政次と羅振玉に導かれ密かに北京を脱出、列車で天津に向かう。婉容、文綉の二人も、翌日池部夫人に付き添われ天津へと溥儀を追った。溥儀ら三人は日本租界宮島街の張園に仮寓し, 日本亡命を希望した。しかし当時の天津総領事・吉田茂の反対で、日本行きは実現しなかった。

静園

 彼らが最初に住んだ張園は、宣統帝の住居として相応しくないということで、1929年日本領事館書記官舎裏に1400坪の静園を新築し、移住することとなった。前庭に噴水のある瀟洒な洋館は、今見ても旧皇帝の住居というより、ちょっとした資産家の個人住宅に見える。溥儀がここを“静園”と名付けたのは、いつか清朝を復興するという”復辟”の機会を待ち望んで、”静観して時の至るのを待つ”ことを意味していた。

文綉

 彼ら三人は、古色蒼然とした紫禁城で、四六時中召使にかしずかれる閉鎖された世界から、一気に自由な世界へと飛び出したのだ。鄭孝胥をはじめとする紫禁城時代からの少数の側近がいたとはいえ、三人にとって初めて味わう市民的生活であった。

 溥儀は、家庭教師・ジョンストンに教えられた習慣に基づき、天津でも数種の新聞を閲覧し、外字新聞を読むための翻訳係も雇って、内外の情勢に気を配った。

 溥儀はイギリス租界の上流階級用クラブの特別会員となり、外国君主並みの扱いを受けた。日本租界でも、祝祭日ごとに手厚い招待を受けた。ファッション雑誌のモデル並みの気障な服装を身に纏った彼は、常に人々の注目を浴び、一流レストランで大版振る舞いや、手当たり次第に最高級品を買いあさる姿が、いやでも人目を引いた。自動車、ゴルフセット、オートバイ、ドイツから輸入したシエパードや英国種の大型番犬、高級時計など、欲しいものは片端から手にした。

文綉

 一方婉容、文綉の二人は、一夫一婦制を建前とする外国租界では、彼らの妻妾同居は理解不能の奇習として人々の注目を浴びた。彼らは、紫禁城の奥深く世間から隔絶した生活とは異なり、誰の眼にもふれる市民生活をしていたのだ。特に側妃という立場の文綉は、公式な場面でしばしば無視され、招待されることはなかった。これは四書五経に親しみ、古典的な教養を誇る文綉には、耐え難かったに違いない。何といっても文綉は、かつての皇帝に選ばれた皇后に次ぐ淑妃だったのだ。

婉容と溥儀

 溥儀と二人の婚姻は、中華民国成立後の1922年に行なわれた。満州旗人・郭布羅氏・婉容を皇后として、同じく蒙古旗人の鄂爾徳特氏・文綉を淑妃として迎え、紫禁城で盛大な結婚式を挙げた。溥儀は当初、淑妃を迎えることは“時代遅れの慣習だ”と反対したものの、側近らの勧めで文綉一人だけを迎えることに同意した。何故なら中国の伝統に従えば。妃は4人(贵妃, 淑妃, 德妃, 贤妃), 嫔が9人(昭儀、昭容、昭媛、脩儀、脩容、脩媛、充儀、充容、充媛)、更に婕妤, 美人,才人が各9名ずつ,宝林,御女,妥女が各27名ずつ、合計121名もの女性が一人の皇帝に嫁し就いていたのだ。

婉容

 婚姻当時、皇妃二人は共に14歳。婉容は美貌に優れ、外交的で性格のいい気さくな皇后、文綉の容貌はどちらかと言えば平凡で、閉じこもって古典を読み、筆墨の世界に慰めを見出す内向的な妃であった。婉容には、結婚後に家庭教師として北京生まれのアメリカ人・イザベル・イングラムが付けられ、彼女から「エリザベス(Elizabeth)」の愛称で呼ばれた。自分専用の自動車を与えられ、イギリスかアメリカ留学を夢見た。彼女は溥儀に、ナイフやフォークの使い方を教えたと言われる。しかし天津の深窓に育ち、ミッションスクールを出て一夫一婦制のキリスト教的価値観に憧れた婉容にとって、男色との噂のある溥儀との夜の生活は、全く想像もしないアブノーマルな世界であったろう。溥儀は初夜にも現れなかったのだ。

文綉離婚承認書

 1931年、静園で暮らす文綉は、溥儀の下を離れ弁護士を立てて離婚訴訟を起こす。天津地方院に訴え、生活扶助料・贍養金50万元と分居別住を要求した。皇帝の座を降りたとはいえ、旧中国皇帝が裁判で訴えられえるという、前代未聞の事態となったのだ。外国租界での生活は、今まで封建的な婦女の道しか知らなかった文綉に、自由な人生のあることを教えた。そこでは側妃は社会的に屈辱的な存在以外になく、女性として自分に全く無関心な溥儀との生活に耐えられなかった。当然正室・婉容との確執もあったろう。関東軍による満州への脱出を目前に控えた溥儀は、文綉が再婚しないことを条件に、5.5万元を一時払いにして離婚訴訟を終わらせた。

文綉

 文綉は訴訟の課程で、溥儀の性癖や家庭内および宮廷内の内情やらを洗いざらいマスコミに暴露する。このため、離婚後すべての位を剥奪され平民となり、小学校教師として働いた末に、1950年死亡した。享年42歳であった。

婉容

 同じ年の1931年、溥儀は関東軍・土肥原による満洲国元首就任の提案を受けて、清朝の復辟を条件に満洲国執政への就任に同意する。オープンカーのトランクに忍んで天津の自宅を脱出した溥儀は、湯崗子温泉を経て南満州鉄道が経営する旅順の大和ホテルに宿泊する。一方粛親王・善耆の第14王女で、「男装の麗人」の名で知られる川島芳子が、婉容を天津から連れ出した。婉容は来るべき満州での過酷な運命を知らぬまま、新たな世界へと旅立って行った。

 23歳で満州に向かった婉容は、その後どうなったのか。1934年婉容は満州国皇后となったが、満州皇帝となった溥儀との生活は、関東軍の管理下の欺瞞に満ちたものであった。彼女は満たされない自由と溥儀との変則的な生活に苦しみ、阿片による緩慢な自殺を計りつつあった。溥儀により「冷宮」に閉じ込められた婉容は、関東軍将校との子を身ごもったとの噂もあった。一日に200グラムの阿片を吸い、美しい彼女が洗顔も化粧もせず、狂乱の日々を過したと言われる。華やかな生涯を夢見た婉容が、阿片にしか慰めを見出せなかったとは、哀れとしか言いようがない。

 1945年日本の敗戦となると、婉容は日本亡命を計る溥儀や弟・溥傑と一緒の航空機には乗せられず、僅かな親族や従者と共に満洲国内に取り残され、やがて侵攻して来た共産軍に捕らえられた。更に国共内戦が始まると、敗走する共産党軍と共に中国各地を転々と引き回わされた。行軍中も阿片中毒の禁断症状を示す婉容は、その後溥傑夫人・嵯峨浩などの親族や従者とも引き離され、朝鮮国境に近い吉林省延吉の監獄内で、阿片中毒の禁断症状と栄養失調のために、誰にも看取られずに死亡した。彼女の遺体がどこに埋められたかは、今もって定かでない。

譚玉齢

 静園には、婉容、文綉の他に、満州時代の溥儀に付き添った二人の見知らぬ女性の名前が記録されていた。譚玉齢と李玉琴だ。譚玉齢は1920年生まれの満州族出身の女性。溥儀が1937年満州皇帝となると、日本軍は溥儀に日本人皇妃を迎えようと計画した。それを阻止するため、溥儀は飾り物として譚玉齢を祥貴人として皇宮に向かえたのだ。貴人は第五級の側妃である。伝統的な教育を受け、温和で、なんでも受身で穏やかな対応をする譚玉齢の性格は、気性の激しい溥儀には極めて好ましく思われた。しかし彼女は1942年、22歳の若さで病死する。溥儀は“明賢貴妃”の称号を贈った。

李玉琴

 一方李玉琴は、1928年長春の貧しい家庭に生まれた。譚玉齢が亡くなったあと、1943年日本軍は再度日本人の皇妃を迎える計画を立てる。それを阻止するため、溥儀は15歳と年若く教養も低い李玉琴を、扱い易さを理由に皇宮に迎えいれた。彼女は貧乏で電気もない生活に育ったが、単純で幼稚、庶民的で物怖じせず天真爛漫で明るい性格だったことが溥儀に気に入られた。

李玉琴

 1945年8月満州国が破綻すると、溥儀は彼女を通化大栗子溝に置き去りにする。しかし1954年、李玉琴は10年ぶりに溥儀に再会することになる。溥儀はハバロフスク収容所、ハルビン監獄を経て、撫順刑務所で人間改造教育を受けていて、その一環として李玉琴に会うことを許されたのだ。溥儀50歳、李玉琴はまだ27歳。李玉琴は、いつ解放されるかも知れない溥儀と名ばかりの婚姻関係を続けることができないと考え、離婚を決意し1957年認められた。彼女は1958年新たな結婚生活に入り1子をもうける。2001年73歳で病死した。

李淑賢

 溥儀には、実はもう一人の女性がいた。彼は1959年、建国10周年の特赦を受け北京へ戻り、北京植物園で軽労働を始める傍ら、1962年李淑賢と結婚する。溥儀57歳、李淑賢37歳。当然政府の口利きがあったに違いない。李淑賢は1925年杭州に生まれ、幼くして両親を失い、継母のもとで苦労して育った。働きながら夜間の職業学校で学び、看護婦の資格をとった。しかし結婚してみて、彼女は驚いた。溥儀は家事能力ゼロ、市民的常識もなく全く幼児に等しかった。夜勤もある看護婦の仕事を続けながら溥儀の面倒をみる李淑賢の生活は、さぞかし困難を極めたであろう。

李淑賢

 1964年、溥儀は血尿で倒れる。文革の嵐の中で、かつての皇帝を引き受ける病院は何処にもない。周恩来の計らいでやっと人民病院へ入院するが、看護婦は黒五類の筆頭であるかつての皇帝に同情を寄せたと非難されることを恐れて、中々溥儀を看ようとしない。1967年10月、溥儀は文革の嵐が吹荒れる北京で、62歳の生涯を閉じた。当初遺骨は八宝山人民公墓に葬られたが、1995年清西陵近くの華龍皇家陵園に移された。清西陵は、清東陵と並ぶ清朝歴代皇帝の陵墓であり、世界文化遺産に登録されている。溥儀が皇帝を退位した際、清東陵内の彼の墓は造営が中止されたのだ。溥儀の亡骸が移された華龍皇家陵園は、全くの民間陵墓である。墓地への移転は、陵園側の提案により李淑賢の同意の下で行なわれた。

溥儀の墓

 李淑賢は、漢奸としての半生を持つ溥儀の妻と死後まで言われるのを嫌った。そこで1997年彼女が72歳で病死すると、溥儀とは別に八宝山人民墓に葬られた。一方華龍皇家陵園内の溥儀の墓の両脇には、婉容と譚玉齢の墓が設けられた。婉容の亡骸は所在不明なため、異母兄弟の潤麒が、彼女の手鏡を代りに墓に納めた。婉容が生きていたら、自分の墓が溥儀のものに併設されるのを、望まなかったかもしれない。しかし溥儀にとっては、皇妃と貴妃に囲まれて眠るのは、この上ない幸せに違いない。それはまた、華龍皇家陵園にとっても最上の宣伝となったのだ。

静園

 溥儀と生活を共にした5名の女性達は、数奇な運命を辿った溥儀と同様に、又はそれ以上に過酷な運命に翻弄された。ありていに言えば、彼女らは結婚して、いいことは何一つ無かった。しかし婉容だけでなく溥儀にとっても、天津の静園での自由な生活は、生涯で最も楽しい、思い出深い時間であったに違いない。紫禁城での堅苦しい生活の後に訪れた静園で自由な生活は、生涯で唯一の、しかし余りにも短い“ひと時”であった。天津の静園を訪れる者は誰しも、彼らのその後の運命に思を馳せ、歴史の変転に深く心を打たれるのだ。

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