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天津の歴史的建物(1)

第49回 2013年03月

バラード邸は何処にあったのか

怡和洋行

 北京の南東115キロにある直轄地・天津は、首都北京の対外窓口となった海辺都市で、戦前には上海同様に欧米租界があった。そこで今回は、天津の歴史的建築群について述べてみたい。天津は独特な特徴を備え、東西文化が融合した美しい町並を形成している。その成り立ちは、19世紀の半ばから中国が西洋列強に次々と不平等条約を結ばされ、天津がその対外通商の窓口となったことにあった。

フランス公議局

 1858年第二次阿片戦争(アロー号事件)で英仏連合軍に破れた清朝は、1860年天津条約を結び天津を開港する。これを契機に英、仏、米、独、露、比(ベルギー)、伊(イタリア)、奥(オーストリア)、日本の9ヵ国が相次いで進出する。英仏米は1860年代初頭に、その他は少し遅れて1895~1902年に前後して租界を開設した。を開設した。

横浜正金銀行

 第一次世界大戦に敗れた独、奥は1917年に撤退し、露は1924年に、比は1931年に撤退するが、英・米、仏は1943年の租界解消まで天津に留まり、日本は1945年の敗戦まで実質的に駐留していた。これら諸国が租界に建設した建物は、各国特有の建築様式を備え、その一帯は上海の外灘と同様に「世界建築博覧会」と呼ばれている。

 各国の租界は、北西から南東に向かって蛇行しながら街を縦断する白河(現・海河)を挟んで両岸に作られ、西側には北から南へ、日、仏、英、独の各租界が、東側には奥、伊、露、比の租界が並んでいだ。(米租界は1902年英租界と合併した。)

 疎開地の中心は、先駆となった英仏租界であった。両者を南北に縦断する幹線・中街(現・解放北路)には、各国の銀行や会社が並び、各国租界の政治・経済・商業の中心となった。

 この中街を横断し、仏租界とその北側に位置する日本租界を貫いて旧天津城まで達するのが旭街(現・和平路)で、路面電車が敷設され、交通・商業の中心として栄えた。

天津租界地図

 旭街(現・和平路)と南北に交わり、日本租界を縦断するのが喜島街(現・鞍山道)で、公園や領事館、学校など、主要な公共施設が並び、旭街と十字の都市軸を形成していた。喜島街の左右には、当初から碁盤目状に整然と区画された日本租界が広がっていた。

 2005年、天津市は「歴史風貌建築保護条例」を策定し、746棟の「歴史的風貌建築」とイタリア風景区や「五大道」など6箇所の「歴史風貌建築区」を定めた。「五大道」とは、今もヨーロッパ風の住宅が並ぶ成都道、重慶道、承徳道、大理道、睦南道、馬場道を指す。旅行者はこの地区を、観光用馬車で一巡することができる。天津では基本的には東西の道路を“道”、南北の道路を“路”と呼んでいる。

張学良旧居

 北京の伝統的な建築が四合院だとすると、天津のそれは西洋各国の建築様式を取り入れた一戸建て洋館・小洋楼であろう。租界を運営する各国が建造した公共の建物は別として、こうした個人住宅の「小洋楼」は、大部分中国人が出資して建てられ、外国人所有のものは、極めて少なかった。その点、フランス租界を中心に多くの庭園住宅を建設した上海の欧米人社会とは、異なっていた。天津の「小洋楼」の建築は、主に没落した清朝の皇族、権勢を失った軍閥、落ちぶれた官僚、革命の闘士などによって建てられた。1911年辛亥革命以降、9ヵ国の租界は首都・北京の「政治的舞台裏」となっていたのだ。

 租界は中国の主権が及ばない「治外法権の地」であったため、さまざまな政治勢力の避難所となり、彼らが再起の機会を伺う政治的震源地ともなった。退位した清朝最後の皇帝・溥儀を初め、王侯貴族や大臣、更には宦官までもが天津に多くの「安住の家」を建てた。溥儀が皇后・婉容や淑妃・文綉と共に住んだ静園や張園、張作霖の第三夫人の許氏宅などがそれである。

袁世凱旧居

 これら西洋風の別荘様式の建物は市内に300箇所もあり、そのうちの100以上は歴史に名を残す知名人の旧居となっている。張学良、段祺瑞、袁世凱など中国近世史を飾る歴史的人物の住宅だけではなく、梁啓超(思想家)、曹禹(劇作家)、李叔同(文化宗教家)など、中国を代表する文化人のかつての住宅も数多く存在する。その他にも、日本軍の熱河作戦に戦わず逃げ出した馮国璋将軍や、清朝東陵の乾隆帝や西太后の墓を盗掘した悪名高い湯玉麟などの住宅もあって、中国近代史を学ぶ者には、興味が尽きない。

マルコポーロ広場

 イタリア租界の中心・マルコポーロ広場には、中心に西欧都市にあるようなオベリスクが建つ。中国では他に見られない明るい西欧建築様式の瀟洒な個人住宅が、整然とした都市計画に基づいて整備された町並みに軒を連ねる。まるでテーマパークのようだ。ここは正にいま、国の内外から多くの観光客を集め、魅力的な観光街として発展しようとしている。実際多くの観光客がガイドに連れられて、ぞろぞろ歩くのを目撃した。

 しかし、中国に植民地を持たなかったイタリアが、何故天津にこのような立派な租界を造ったのか、実に不思議である。千人もの兵隊を擁して、本国から遥か遠い中国で街作りをするからには、それなりの経済的な理由があったに違いない。どなたかご存知の方がいらしたら、お教え願いたい。

279イタリア租界

 かつての天津城の跡に建つ鼓楼の南側には、古文化街が広がる。海の安全を祈願する媽祖を祀る天后宮や、有名な楊柳青年画を売る藝海堂、名物泥人形店、本物の鳥の羽で作る「はたき」の店・津門蔡氏貢撣や、玉、凧、刻章、筆硯の文房四宝を売る専門店、骨董店などが軒を並べて見飽きることがない。

 近世史がぎっしりと詰まった天津は見所が多い。そこで今回は、溥儀の住んだ張園と静園を中心に、彼とここに暮らした三人の女性の生涯を振り返ってみたい。

張園

 1925年2月24日清王朝の最後の皇帝・溥儀は、馮玉祥の起こしたクーデターにより紫禁城を追われ、日本領事館の手引きで密かに北京から天津に移り、日本租界の宮島街に住んだ。彼は1932年満州国の執政となるため満州へ行くまでの7年間を、この天津で過したのだ。当初の4年間は宮島街の張園に、後の3年を静園で暮らした。張園(現・鞍山道59号)は鞍山道と山西路の交差点にあり、元は清末の駐武昌第八軍長張彪(zhangbiao)の私邸であった。

 張彪は1911年武昌蜂起に参加したが、その後天津に身を隠し、1915年西洋古典風の楼房を建てて露香園と名付けた。その後拡張して劇場、遊戯場、レストランなどを建て増したことで、一般には張園と呼ばれた。1925年春、溥儀が住み始めたころ、一階には客間と大ホール、皇后の寝室があり、二階は溥儀の寝室、小客間、三階には食堂、会議室、遊戯場があった。敷地面積約13000平米。建物の前面に築山や池があり、別棟には中華、西洋料理の台所があった。

 溥儀は静園に移る1929年7月9日までの約4年半をここで過した。溥儀が静園に移った後、日本軍はここを18万元で買い取ったうえ取り壊し、新たに二階建ての現存の建物を建てた。そこで残念ながら、かつて溥儀の一家が住んだ張園は現在していない。今は新しい建物の前に「前清宣統帝行在」の碑が残されているだけである。

静園

 1921年に建てられた静園(和平区鞍山道70号)は、元は駐日公司も勤めた陸宗輿(北洋軍閥政府の要人)の公館であった。敷地面積は約3016㎡、建物の面積は約1900㎡。元来は乾園という名であった。1929年溥儀は、家族と一緒に乾園に引っ越してくると、この屋敷の名を静園に変えた。それは孟子の言葉“我善养吾浩然之气”に基づいて、“静以养吾浩然之气”(静を以て吾が浩然の気を養う)の意味を込めて名付けられた。“時代の変化を見極めて、再び権力を握るチャンスを待つ”とする溥儀の心が伺える名前である。

静園、溥儀寝室

 静園は表、裏の2つの庭を持つほか、屋敷の西側には独立した庭や部屋などがあり、溥儀に関する歴史的展示が見られる。外観は中世のスペイン風建築様式であるが、建物内部に入ると、建物全体が煉瓦や石造りでなく木造であることが分かる。日本風な建物の装飾も幾つか見られる。1階には、レストラン、会議室、リビングルームと溥儀の2番目の妻・淑妃の寝室があり、2階には、溥儀が先祖を祭る仏壇、溥儀の書斎と正妻・婉容の寝室があった。

(「天津の歴史的建物(2)溥儀をめぐる三人の女性」に続く。)

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