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ギュツラフとその時代(1)

第41回 2011年07月
ギュツラフ気象塔

 あるとき井上洋さんからメールで、“ギュツラフは面白いよ、調べてみたら。いま「にっぽん音吉漂流記」を読んでいる。”との連絡があった。井上洋さんとは、上海のブログで最も有名な人で、いまや彼のブログは、上海歩きには無くてはならない一大人気サイトである。

 しかし“ギュツラフ”について、私は殆ど知識がなかった。唯一、外灘に彼の名前をつけた気象塔があったかなーといった漠然とした記憶なのだ。まして“音吉”など聞いたこともなかった。その時私には興味を引かれる他のテーマがあって、井上氏の勧めには心が向かなかった。しかしヘボンとギュツラフが接点をもっていることが分かると、俄然興味が沸いてきた。では一丁調べてみるか。

 調べ始めるとこれは大変で、中国ばかりか対外門戸開放を控えた幕末の日本とも深くかかわってきて際限がない。結局ギュツラフ個人の生涯がいま一つよく分からないまま、彼が係った時代の膨大な歴史の中に迷い込んでしまった。これでは日本の対外開放外交史でも学ばないかぎり整理がつかない。そこで今回は、分かる範囲でギュツラフの生涯を辿るとともに、彼がどんな歴史的背景の中にいたのかについても触れてみたい。

1850年代の上海バンド

 2009年には、横浜開港150周年を記念する多くの事業が行われた。しかし阿片戦争の結果行われた中国5港の開港(1842年)と、その11年後から始まった日本の開港との密接な関係については、資料がほとんど見られなかった。だがギュツラフの周りには、二つの国の門戸開港に深く係わった人間が何人もいたのだ。

カール・ギュツラフ

中国服のギュツラフ

 ギュツラフは本名 Karl Friedrich August Gutzlaffといい、1803年北ドイツ・ボンメルの織物業者の息子として生まれた。彼は馬具業者の徒弟となったが、プロシャ王に才能を認められ、神学校へ進学する。中国伝道の開拓者で、新・旧約聖書の中国語訳や英華辞書の編纂でしられるロバート・モリソンに会って啓発され、東洋宣教に使命を感じる。1823年オランダ宣教会(プロテスタント)からバタビア(タイ)に派遣され、その後ロンドン宣教会に移り、1832年本格的な中国伝道のためマカオにやってきた。

 彼は語学の天才で、タイ駐在の間に最初の妻と共にタイ語による聖書の翻訳をする。更にその地の中国人から福建語を中心に中国語も習得する。マカオ到着後は、英国商務庁主席中国語通訳官として働くと同時に、中国語による多くの伝道文章やパンフレット、月刊誌を発刊、キリスト教禁制を貫く中国本土へ文書伝道を行う中国人の機関を設立して内陸部への布教に努めた。

ギュツラフ訳ヨハネ伝福音書

 しかし彼の性格は複雑で、理解に苦しむところが多い。彼は伝道には極めて熱心で、心底努力を惜しまない一方、布教のためには手段を選ばなかった。当時最大の阿片密輸業者・ジャデーン商会の通訳を務め、英国商務庁の官吏としては上海の道台(地方長官・宮慕久)に強圧的な態度で開港を迫り、阿片戦争の講和条約には通訳を務めた。キリスト教の布教には中国開港が必要で、そのためには阿片輸入業者と手を組むことにも何の矛盾を感じなかったのだ。宣教者の顔と同時に、貿易拡大を目論む鋭利な英国官吏の顔も隠されていた。

最初の日本語聖書・約翰福音之傳

ギュツラフ訳ヨハネ伝福音書

 彼はマカオで初めての日本語の聖書の翻訳に取り掛かる。その時彼に日本語を教えたのは、彼が自宅へ引き取った三人の日本人漂流民だった。彼等は元々14名で日本の千石船・宝順丸にのり、1832年10月尾張米を積んで鳥羽港を出帆し江戸に向かった。しかし途中遠州灘で遭難し、太平洋上を14ヶ月も漂流した後、三人の生存者だけが米国西海岸クラッター岬付近に漂着した。その後ハドソン湾汽船会社の世話でロンドンへ送られ、更にマカオへと回送されたのだ。岩吉28歳、久吉15歳、音吉14歳であった。

 ギュツラフは彼等三人から日本語の手ほどきを受け、1837年初の日本語聖書・約翰福音之傳(ヨハネ福音書)1690冊を出版する。印刷はシンガポールの堅夏書院で行い、すべてカタカナによる木版刷りであった。この聖書は、日本語による最初の記念すべき聖書だが、三人の漁民の教えた日本語のレベルに問題があったためか、米国聖書教会から聖書としての認定を拒否される。確かに今読んでも、「ハジメニ カシコイモノゴザル。コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル」で始まる聖書は、神が“ゴクラク”になっていたりして、当時の話し言葉を研究する言語学者を除けば、聖書として役立つとは思えない。それでもギュツラフは、この聖書を日本に持ち込み、日本宣教の足がかりとしたいと考えたのだ。

モリソン号事件

モリイソン号

 1837年、肥後(熊本県)の漂流民:原田庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松の四名がマカオへ送られてきた。彼等は栄力丸で天草から肥後へサツマイモを積んでいく途中遭難し、35日間漂流した後に救助され、マカオで音吉たちに合流することになった。米国の中国貿易会社、オリファント商会の Charles William Kingは、これら7名の日本人漂流民を日本に戻すことにより、日本との通商許可を得る突破口としたいと考えた。そこでギュツラフを通訳に迎え、武装解除した商船・モリソン号546トンで江戸を目指した。彼等は1837年7月30日、三浦半島御前崎南方に到着、いよいよ東京湾の入り口・浦賀沖に停泊した。ペリー来航の15年前であった。

 しかし鎖国政策を続ける江戸幕府は、彼等の話を聞いても結局は砲撃で追い払った。仕方なく帰途に鹿児島港にも立ち寄ったが、平和裏に話し合いたいとする彼等の意向は又も無視され、江戸の場合と同様に砲撃で追われた。祖国を前にして上陸できなかった漂流民達の落胆は計り知れなかった。これで日本へは帰れないと観念した宝順丸の三名は、髷を切り落として以後外地で生きのびる決心を固める。

 モリソン号は、ギュツラフが所属する英国商務庁と貿易上競合する米国船だった。それを敢えて乗船したのは、ただ一途に日本に入国し、宣教活動を行うことを願ったためだった。しかしギュツラフは、せっかく翻訳した日本語聖書を日本に持ち込むことが出来なかった。しかし彼の翻訳した中国語聖書・マタイ伝その他の宗教書は、ロバート・モリソンの聖書とともに1850年洪秀全により始められた民衆革命・太平天国の乱の思想的な背景となったのだ。

 なおギュツラフの日本語聖書は、日英辞典を最初に編纂したヘボンがシンガポールで発見し、後年日本に始めて持ち帰ることができた。

 日本では、モリソン号事件を受けて高野長英や渡辺崋山などの蘭学者が、砲撃で商船を追い払う幕府の鎖国政策に批判の声を挙げた。その結果、「蛮社の獄」といわれる言論弾圧事件へと発展していく。

漂流民・音吉

 マカオに戻された漂流民7名のうち、一番若い音吉だけが、歴史の厚い霧の中から微かにおぼろげな姿を見せる。

 音吉の故郷、愛知県知多郡美浜村では、宝順丸の乗組員全員が死亡したと考え良参寺に14名の墓を建てた。一方帰国を諦めた音吉は、船員としてアメリカへ渡った。その後1844年ごろ上海に戻り、デント商会に勤める。そこでシンガポール出身の女性と職場結婚し、2男3女をもうけた。やがて彼は大きな屋敷に住み、召使3人を雇うほどに成功した。「にっぽん音吉漂流記」の著者・春名徹氏によれば、英語名を J. M. Otterson といい、デント商会から徒歩15分余りのRope Walk Road 96(締道路96号)に住んだという。

 1849年英国軍艦・マリーナ号が江戸湾と下田湾の測量を目的に来航した際、身分を隠して中国人・林阿多と名乗るイギリス人の服装をした音吉の姿があった。1853年ペリー来航の際も、通訳として働く彼の姿が日本の記録に残された。更に1854年イギリス極東艦隊司令官・スターリングが長崎で日英和親条約締結の交渉を始めた際には、ジョン・マシュー・オットソンと名乗る日本語の通訳がいたのだ。

 1862年、幕府が派遣した最初の海外示視察船・千歳丸で上海を訪れた佐賀藩士、中牟田倉之助は、5月18日デント商会に“ヲト”を訪ねたが会えなかった。音吉はその年の1月に、既に妻の出身地・シンガポールに移住していたのだ。

 一方同じ年に、第一次遣欧使節団一行がシンガポールに寄港すると、日本人が乗った船と知った音吉が訪ねてくる。彼は使節団一行に会い、淵辺徳蔵、森田多吉郎の二人を自宅に招待した。彼らは欧米人居住区にある2階建て、草木のおい茂る広い庭の立派な家で暮らす貿易商の音吉に迎えられた。音吉は苦節30年の自らの生涯を涙ながらに語ったと言われる。同じ船に乗っていた福沢諭吉も、長崎で通訳として現れた Ottersonを覚えていた。福沢は音吉から、阿片戦争と5港の開港、租界の発展、太平天国の乱と急速に変わりつつある中国とアジア情勢について詳しく聴くことができたのだ。

にっぽん音吉漂流記

 音吉は二度と日本の土を踏むことなく、1863年シンガポールで亡くなった。彼はジョン万次郎と違い、歴史の表にでることはなかった。しかし彼が日本開港の影で果たした役割は、けして小さいものではなかった。彼は当時、列強の進出で激動期を迎えたアジアの中で、今にも訪れる危機に眠れる日本の状況を客観的に把握できた稀有の日本人だったのだ。春名徹氏が1979年に「にっぽん音吉漂流記」を書くまで、彼の人生は殆ど知られることがなかった。

 2004年シンガポールで音吉の墓が発見され、翌年に173年ぶりで故郷に帰り、良参寺に埋葬された。春名氏は「にっぽん音吉漂流記」を、1879年の東京日日新聞の次のような記事で締めくくっている。“山本音吉の子・ジョン・ダブリュー・オットソンが帰郷して、神奈川県へ入籍を申請した。”と。それは音吉が切望して叶えられなかった故郷・日本への帰郷を、混血の息子が果たしたことを伝えるものだった。彼の生涯は、三浦綾子も小説・海嶺で取り上げている。

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