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マテオ・リッチ、東西文化の懸け橋

第40回 2011年05月
マテオ・リッチ展覧会

 2010年春に上海博物館でマテオ・リッチ(Matteo Ricci)の展覧会があった。これは彼の没後400年を記念して北京、上海、マカオの三ヶ所で開催された展覧会の一環であった。残念ながら彼の名前を知る人が少ないせいか、同時に開かれていたウフィッツイ美術展の方が遥かに多くの観客を集めていた。しかしマテオ・リッチの展覧会は、正に中国でしか見られない記念すべきイベントで、この展覧会の展示物に関する詳細な解説書が発刊されなかったことは真に残念なことで、私だけでなく多くの西洋人が解説書を求めて問い合わせているのを目撃した。展覧会では、西欧科学、気象・天文学、数学、地理学及び中国語辞書の編纂や中国古典の西欧への紹介など彼の幅広い功績と、当時の文化的背景が中国語と英語で紹介されていた。

マテオ・リッチ展覧会

 マテオ・リッチは上海・斜家匯の土地の由来である明末の科学者・徐光啓の先生として知られる。徐光啓と共にユークリット幾何学を翻訳した際創った数々の用語:点、線、直角、対角、直線、平行線、三角形、相似形などは、400年を経た今も日常的に使われているので、我々にとってもけして無縁の人ではない。そこで、私の思い出も交えて、彼の足跡を振り返ってみたい。

 マテオ・リッチはカトリック宣教団・イエズス会(ラテン語の Societas Iesu、英語の Jesuit)の宣教師として中国に派遣され、当時のオランダ植民地・インド洋ゴアを経由し、1582年にマカオに到着した。日本では既にイエズス会の創設者の一人・フランシスコ・ザビエルの布教活動があった。しかしザビエルは日本伝道ののち中国を目指したが入国出来ず、1552年広東省広州港外の小島・上川島で病死した。マテオ・リッチの中国来航はフランシスコ・ザビエルに遅れること30年、歴史的には正に先人・ザビエルの果たせなかった中国宣教の使命を引き継ぐこととなったのだ。

Matteo Ricchi

 マテオ・リッチは1552年、イタリア東部・ Macerata(現在のPapal States, Marche地方の一都市) の薬やの息子として生まれた。展示会では、紅い屋根の建物群の背景に広がる豊かな中世の城砦都市の光景が油絵で示されていた。14歳まで土地のイエズス会の学校で学んだのち、17歳でローマに登り、Collegio Romano などで哲学やラテン語、ギリシャ語を学ぶ。この時彼はドイツ人教師 Christoph Claviusから、幾何学、数学、天文学、地図製作法や、日時計・機械仕掛けの時計・天文観測儀などによる時間と空間観測法など、当時の最先端技術を学んだ。その後リッチが中国で紹介した知識は、正にクラヴィウスから学んだことそのものだったのだ。

 1577年、彼は25歳で哲学士に任ぜられ、1578年3月教皇・ジョージ13世の祝福を受けて極東のインド、更に中国の宣教へと旅だった。彼がどんな思いで一生を神に捧げ、未だ見ぬ極東の宣教師となったかは定かでないが、それ相応の堅い決意と溢れる情熱があったに違いない。現に彼がローマを発ってからマカオ到着まで、5年2ヶ月を要しているのだ。

Matteo Ricchi

 マテオ・リッチは事前準備としてリスボンでポルトガル語を学んだ。更にマカオに着くと、既に3年前にマカオに赴任していた先輩の宣教師・ミケーレ・ルッジエリMichele Ruggieri)から早速中国語を学んだ。そして翌年、彼はルッジエリと共に広東省肇慶へと出発した。それはその後28年に及ぶ長い中国宣教の旅の始まりであった。

 肇慶での滞在は8年間に及び、その間に彼はヨーロッパ式地図6枚を製作したが、現存していない。更にルッジエリと共にポルトガル・中国語辞典を編纂し、これは中国語をアルファベット表記した最初の辞書となった。(1934年にローマのジェスイット派古文書館で発見され、2001年に発刊された。)

Matteo Ricchi

 その後詔州、南昌、南京を経由して1598年念願の北京に着く。しかし秀吉の朝鮮出兵の影響で退去を命ぜられ、一旦南京に引き返した。そこで上海出身の徐光啓と歴史的な邂邂逅をする。リッチは徐光啓に西欧的な天文地理、数学、自然科学の知識を与えると共に、マタイ福音書や「天主実義」などのキリスト教の教理解説書を与えた。徐光啓は3年の熟慮ののち南京で洗礼を受け、一家全員がキリスト教に改宗することとなった。

 リッチが南京滞在中の1598年に、彼はLazzzaro Cattaneo と共にもう一つの中国語・オランダ語辞書を編集している。これは現存しないが、ローマ字表記の発音記号に加えて中国語の抑揚(四声)を表示した最初の辞書であった。

マテオリッチ展覧会

 1601年マテオ・リッチは万歴帝から招聘されたことで、やっと北京への道が開けた。彼は中国人にヨーロッパ文化を押しつけるのでなく、中国文化との融和策をとった。中国名・利瑪竇(Lì Mǎdòu )を名乗り、中国の儒者の服を着て中国式の生活をし、中国文化の研究に励んだ。儒教を通じてカトリックの教義を教え、カトリックの神(デウス)を“天帝”と呼んだ。彼は伝統的な儒教思想はカトリックと矛盾せず、両者は同じだと教え、中国人の祖先崇拝を容認した。そのため後には典礼問題に発展し、結果的に中国でのキリスト教禁止に到る原因となった。(典礼問題:ローマ教皇庁は中国人キリスト教徒の祖先崇拝と偶像信仰を禁止すると発表。怒った康熙帝は宣教師をマカオに追放、やがて清朝第五代皇帝・雍正帝が1724年にキリスト教全面禁止に踏み切った。)

 リッチは“欧州大使”として1601年万歴帝に謁見し、持参の時計を献上し、楽器・クラヴィアータを演奏した。万歴帝は彼の話に大変興味をひかれ、彼を紫禁城に3日間引き留めたという。リッチは更に1602年に、絹布上に手描きした世界地図『坤輿万国全図』6巻を献上し、翌年更に数本を追加献上している。それらは地球が球体で、経度・緯度・赤道により区分され、五大陸が明確な輪郭線で示された中国で始めての世界地図であった。その現物は、バチカンと瀋陽博物館、ソウルに現存するという。展覧会で公開された一巻は壁一面の大きな地図で、日本は北海道から九州まで4島が描かれ、細かい地名まで記入されていたのには驚かされた。ただし何故か北海道では、北海道と佐渡ヶ島の地名が混在していた。こうした詳細な都市情報は、先駆者であるザビエルなどを通じてイエズス会に知らされていたのであろうか。確か同様の地図は、斜家匯の徐光啓記念館の中にもコピーが飾られていたと思うので、興味のある方は覗いてみることをお勧めする。

幾何原本

 1606年マテオ・リッチと徐光啓は、リッチがローマから持参したユークリッドの「幾何原本」ラテン語版の中国語訳に取り掛かる。リッチが原書を中国語の口語訳をし、徐光啓が文章化する。更に二人は1字1句を斟酌したうえ、他の学者に見せて推敲する。こうして1607年に全15巻のうち6巻「几何原本」が発刊された。それは直ちに大きな反響を巻き起こし、明末の数学関係者の必読書となった。しかしその後リッチの死亡により翻訳作業は中断され、残り9巻の完訳は250年後、李善蘭による翻訳まで待たなければならなかった。

 なお、マテオ・リッチの死後、彼に啓発された徐光啓は次々に自然科学書を発表する。中でも137巻からなる「崇禎暦書」は、緯度経度など地理学的な計測に基づき、従来の天球は丸く地球は平らだとする伝統的な概念を打ち破り、天体運動に基づいた日食月食の観測による新しい暦を確立することで、以降3世紀にわたる天体観測による暦学の基礎を築いた。

更に彼の死後6年を経て発表された「農政全書」60巻は、徐光啓自身の長年にわたる農業実践から生みだされたもので、農具や植物サンプル収集から始まり、古代からの農業書に克明な注記や追記を加えて、中国の農業科学知識の集大成となっている。

 マテオ・リッチは、AD1,000年ごろ北宋の都・開封に来たユダヤ人について知った最初の西欧人であった。彼は1605年に北京で彼らの一人と会い、興味をそそられて2年後に使者を開封に送った。目的は、世界の聖書の標準となった旧約聖書のギリシャ語訳・セプトゥアギンタ(紀元3世紀アレキサンドリアで翻訳された70人訳聖書)の原本となるヘブライ語聖書の一部を、もしかしたら開封のユダヤ人コミュニテイが保持しているかもしれないと思ったからだ。調査の結果、彼の期待は裏切られた。開封のユダヤ人コミュニテイは周囲の中国人との混血が進み、その後消滅してしまう。彼らの使っていたトーラ(モーセの律法書)も散逸してしまった。

Ohel Lear Synagogue

 ところで余談であるが、ある時私はJacob Sassoon の創立した上海に残る東洋一のシナゴグ(ユダヤ教会Rachel Synagogue)の姉妹教会が香港にあることを知って訪問した。Jacob Sassoon は、和平飯店その他の幾多のビルを建設した Victor Sassoon の甥で、彼より1代前のサッスーン財団の宗主であった。彼は1910年に上海で妻・ Rachelのために教会を建てたが、それより10年前、香港のMid Levelに母親の為のOhel Leah Synagogueを建設していたのだ。

 私が訪れた際に購入した資料には、驚いたことに、ある時香港の Hollywood Road の骨董屋から、開封のユダヤ人が使っていたトーラの一部が見つかり、早速購入したと書いてあった。本当なら、今は消失した開封のユダヤ人の聖書の一部は香港に現存することになる。マテオ・リッチらは、当時彼らのトーラを調べただけで、持ち帰らなかったのだ。

北京市党学校

 1610年5月11日、リッチは病気で倒れる。十字架とIgunatiusの像に接吻した後、天に召されたという。彼は最後まで自己の使命と教会に従順だった。翌日宮廷画家・游文輝が油絵で彼の肖像画を描いた。それはローマに持ち帰り公開され、中国で最初の肖像画となった。今回展覧会の出口に飾られたその肖像画を、私は心を動かされて何度も眺めた。

 当時中国で無くなった外国人は、すべてマカオに埋葬されるのが規則であった。しかしイエズス会は彼の中国への文化的貢献を理由に、北京に埋葬してくれるよう万歴帝に願いでた。そこで彼の遺体は、外国人として初めて北京の柵欄墓(西城区車公庄大街6号)に埋葬されることとなった。

マテオ・リッチの墓

 彼の墓はいま、北京党学校構内の広々とした中庭の東南側一角にある。私が守衛に構内への立ち入り許可を願うと、歴史的史蹟であっても現役の建物ではいつも“不行、不行”と追い返されるのに、今回はすんなりとOKがでた。7階建ての堂々としたコンクリート建て大校舎を抜けて中庭にでると、中ほど左側に磚で囲まれた壁の一角があり、多くの墓が並んでいた。マテオ・リッチの墓は独立した区画にあるので、直ぐに分かる。遠くイタリアのMarcerataから遥々中国へやってきて、28年の生涯を捧げたリッチの生きざまを思った。

 周囲にはリッチ以後に亡くなった宣教師・Ferdkinand Verbiest, Johann Adam Schall von Bellその他の宣教師たちの墓も隣接している。

 1615年、マテオ・リッチのラテン語による中国宣教日誌・De Christiana Expeditione Apud Sinos が見つかり、直ぐに欧州数カ国語に翻訳された。

マテオ・リッチの墓

 マテオ・リッチは独創的人物ではなかったが、彼が若くしてローマで学んだことを全て中国で教え、中国の古典や伝統文化を欧州に紹介したことで、正に東西文化の懸け橋となった。彼の業績は斜家匯の徐光啓と共に、もっと知られていいと考えている。

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