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徐家匯(シュジャホイ)東西文化交流の原点(4) 土山湾孤児院

第30回 2010年01月

土山湾孤児院

土山湾孤児院は1855年青浦横塘でイエズス会宣教師・薛孔昭により始められた。しかし太平天国乱の際破壊され、1864年に徐家匯の土山湾に移転してきた。当時徐家匯の南には肇嘉浜川が流れていて、その前で水路が湾曲していたため、度々洪水が起こった。そこで河を浚渫し、その泥を岸辺に積み上げて小山とした。そこを人々は土山湾と呼んだのだ。現在の漕渓北路と浦匯塘路の交差点に当たる。

董恒甫職業技術学校1864年西洋人伝道師が青浦蔡家湾に建設した孤児院が浦西路448号に移転してきた時、盛り土は既に無くなっていた。しかし人々は未だに“Tousewe-土山湾”と呼んでいた。孤児院とその他の多くの施設が土山湾の名前を冠したので、それはその地区の一般的な名称となった。

スペイン人宣教師 Joannes Ferrerに代表される一群の芸術家たちが土山湾孤児院を建て、6歳から10歳の子供たちに衣服と食物を与え、彼らの将来設計のため工芸品の制作を学ばせた。20世紀初頭、孤児院は周囲1.5キロに点在する宗教的建物と合わせてカトリック共同体を形成し、文化的中心となった。

徐宝慶つげ彫刻土山湾孤児院は、1920~30年代にその規模が最も大きくなった。孤児院は数十棟の建物を擁し、150室以上の工房を持っていた。美術、工芸、出版などの教育施設を備え、無数の機材と生産施設を備えた。孤児たちは、知識や礼儀を学び、若年でも多くの技術に通じていた。6年間の就学の後、孤児たちは更に2年間の中等部の勉学と職業訓練を受けた。午前中は中国語、数学、物理、化学、地理、外国語を学び、午後は宗教教育と、彫刻、大工、鍛冶、器械操作などの職業訓練があった。その後彼らは更に専門の工房で一日9時間を働き、専門的な知識と技能を身につけた。孤児院の工房は、皮製品、木材、鉄、ブロンズ、絵画、写真など多部門に渡り、各部門には監督官がいた。孤児院は単に美術工芸品の工場だったのではなく、孤児たちの実習工場でもあったのだ。更に販売用の商品まで製作し、絵画、彫刻、印刷、木彫、金属工芸などの受注生産を行った。孤児たちは喜んでこうした製作に参加し、彼ら自身の職人的な腕を磨いた。土山湾の近代中国文化に対する最大の貢献は、美術、工芸の論理的な教育と創作実践にあったのだ。

土山湾から生まれた様々な芸術

土山湾画館(Painting House) は元来宗教画や彫刻を彫る職人を養成することを目的とした。宣教師たちは鉛筆画、色彩画、油絵などの技術を教え、聖人のポートレートから始まり風景画や人物画、花鳥などに及んだ。1915年サンフランシスコで行われたパナマ・太平洋博覧会では、土山湾画館の出品作品は19個のメタルを獲得した。彼等の作品は海外にまでも販売されたのだ。

徐宝慶つげ彫刻著名なイタリア人画家・Nicolas Massa神父は、中国に全く新しい美術教育の概念と体系を導入した。彼等はまた国の内外に知られた多くの芸術家を養成した。そうした芸術家には、徐詠清、周湘、任伯年、徐悲鴻、劉海粟、張充任などがいる。彼等は西欧絵画の手法を組織的に身に着けた最初の中国人であった。中国最初の現代芸術協会である「上海図画美術院」や最初の「絵法研究会」、最初の西洋画の教科書「中学鋼筆画貼」など、ほとんどが土山湾から生まれたのだ。彫刻、素描、油絵、ペン画の新しい作品は、元を正せば全て土山湾に行き着く。土山湾は中国の美術史の重要な1ページを開き、中国の以後100年にわたる芸術創造と教育の基礎を築いたと言って過言ではない。

土山湾印書館(Printing House)

土山湾孤児院ができた時、創立者たちは主に教育と伝道目的に「印書館」を設立した。土山湾印書館は巨額の資金を投入して、国際的にも当時最新の写真、植字、製版、印刷技術を導入した。

歴史的に当初の印刷には木版が使われたが、1796年ドイツで石版が開発されたこどで、写真技術と化学処理により印刷物の大きさに拘らず、微細で正確な表現が可能となった。こうして欧州に普及した最新の印刷技術は、宣教師により1869年に創設された土山湾印書館に導入され、辞書や地図、楽譜や学術書、宗教書の印刷に活かされた。20世紀初頭にはオフセット印刷技術も導入された。

徐宝慶つげ彫刻ここでの出版物は古典、実用書、論理学、宗教、歴史、自叙伝、医学、絵画、音楽、科学、辞書から教科書まで幅広い分野を網羅し、製本から販売部門まで擁していた。金文字で打たれた表紙の書籍は豪華で、とても素晴らしかったと言われている。これらの出版物は広く揚子江デルタ地帯に普及し、ヴェトナム、タイ、日本、欧米で販売された。こうして土山湾印書館は、中国で最初の西欧印刷技術を導入した最大の印刷所となったのだ。同時に上海に留まらず、中国全土の印刷・出版技術の全般的な発達に大きな力となった。

土山湾印書館は、毎年中国語と西欧言語の100冊以上の書籍を出版し、宗教思想の普及と同時に東西文化交流を促進し、科学技術の中国全土への伝播に寄与した。多くの出版物の中には、上海語に関する6冊の貴重な本がある。1883年~1950年の間に、土山湾印書館は、6人の外国人宣教師の執筆になる「仏語・中国語上海方言松江方言辞典」など6冊の優れた上海語辞典を出版した。これらは上海語が急速に変化したここ140年間の実態を組織的に記録した書物となっている。これらは、土山湾孤児院から上海が受け継いだ言語学上の貴重な文化遺産なのだ。

土山湾工芸院

上海科学会堂ステンドグラスステンド・グラス:
土山湾の歴史的価値について語るとき、中国美術・工芸に対する貢献度、特にステンド・グラスと黄楊(つげ)木彫について触れなければならない。宗教建築では、ステンド・グラスと木彫は重要な建築要素である。設立当初から宗教的色彩を持っていた土山湾工芸院は、特に専門職人の養成を重視し、そのための専門家を揃えていた。約40名の美術教師がいて、紙、布、石材、ガラスに描く宗教画に高度な技術を発揮した。特にステンド・グラスの製作は極東一であった。その独特な画像と優れた品質により、土山湾で製作されたステンド・グラスは、上海や他の地域の宗教建築ばかりでなく事務所ビルの日常的な装飾としても利用された。その美しさと高い品質は、つい最近まで外国人が知るところであった。

徐宝慶つげ彫刻つげの木彫:
土山湾で始まった上海つげの木彫りは、その卓越した品質から近年中国内外の美術市場で脚光をあびている。それらも元を辿れば土山湾工芸院に帰着する。これら上海つげ彫刻の創始者は徐宝慶で、彼は土山湾工芸院で働いた。彼の彫刻の特色は、東洋と西欧のデザインを融合し洗練した形で表現することで、上海派のつげ彫刻を体系的に完成した。それらは実物の形を重視しながら、優美で洗練された芸術的表現に高めている。これらは現在、国家非物質文化遺産の保護目録に加えられている。工芸美術大師となった徐宝慶の作品の幾つかは、汾陽路79号の上海工芸美術博物館で見ることができる。

土山湾の歴史的な評価

土山湾孤児院長年続いた戦争と政治的動乱の中で土山孤児院は失われて、歴史の中に埋没してしまった。人々は土山湾の栄光ある過去について全く知らない。しかし土山湾の歴史を記録に留めようと、過去を掘り起してみるとき、人は愕然とするのだ。歴史的建造物がほとんど残っていない。文化遺産の収集がまったく不十分だ。更に土山湾の実体とその後の影響について殆ど深い研究がされず、客観的な評価がなされていない。今はただ2棟の建物が残されているにすぎない。一つは浦匯塘路55号の建物で、旧孤児院の中心工場の一つであった。それは過去100年のあいだ別の目的で使われたため、古びた建物は危険物となった。徐匯区政府は2,3年前そこを歴史的保存建築に指定し、現在土山博物館とするための復旧工事が始まった。(2010年5月オープン予定。)

徐匯区第一職工業中学古い建物の長期にわたる大規模な改造と破壊、再建の結果、土山湾孤児院の建物は跡方なく消滅し、遺産は世界中に散逸した。油絵の貴重な原画や水彩画、彫刻、ステンド・グラス、その他の工芸品や資料は、どこにも見当たらない。そんな訳でこの記事でも、お見せすることができる写真がほとんどないのが実情である。かつての土山湾孤児院の敷地には、全く新しい董恒甫職業技術学校中高部の建物があり、そこには、1917~37年まで馬相伯の住居があった旨の掲示板がぽつんと残されている。しかし彼が20年も住んだ住居は、跡形もない。更に徐匯区第一職工業学校や電気学院の看板を掲げた新しい職業学校の校舎と校庭が続いている。それらが今も職業訓練学校であることだけが、かつての土山湾の歴史を思い出させる唯一のものとなっている。

瑞金賓館3号館ステンドグラスいま幸いにも上海市の歴史や文化に対する関心が次第に高まってきた。市政府は土山湾に関する情報収集を始め、土山湾の再評価と建物や工芸品の保護に乗り出した。セミナーの実施、古い建物の復旧、土山湾博物館・美術館の設置、流出文物の募集、美術コンテストの実施など、各方面で努力が始まった。一部の若者も土山湾の研究に積極的に乗り出した。更に国内だけでなく世界中で、中国と海外の文化交流に関心の高い人々が遺品を寄贈し、海外に流出した遺産の所在情報の提供を申し出ている。華東師範大学の徐信雖教授は105幅の画を寄贈したと言う。こうした流出文物の返還運動が早期に実を結ぶことを、切に願って止まない。

瑞金賓館3号館ステンドグラス土山湾の研究で最も重要な課題は、文革など過去の政治的な混乱による偏見や先入観を排して、土山湾の歴史的な事実を再発見することなのだ。いま多くの人々が歴史の堆積を踏み越え、歴史的事実に基づいた土山湾の文化遺産の総合的な研究に乗り出したことは、注目すべきである。土山湾の産業技術、芸術、言語、印刷術、つげ彫刻などに関する膨大な成果に新たな光をあて、上海が継承した文化的遺産と市民生活への影響という観点から、土山湾が果たした歴史的な貢献と成果について現実に基づく再検討を始めることが必要なのだ。その成果を、我々も大いに期待したい。

徐光啓記念館の肖像以上で4回にわたり連載した徐家匯の歴史は、これで終わりと致します。当初1回の予定が、その歴史的、文化・芸術的重要性から、つい長い紹介記事となりました。できましたら4回全体を通読し、徐光啓から始まった徐家匯の知られざる歴史に触れて頂きたい。
徐光啓が宣教師・マテオリッチの協力の下に「ユークリッド幾何学」を翻訳した際に創造した言葉:点、線、面、平行線、直角、鋭角などは、いまも現代科学の最も基礎的概念を示すのに不可欠の言葉として、日本でも使われている。その意味では、380年も昔の徐光啓は、我々日本人にとっても無縁の人ではなかったのだ。

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