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徐家匯(シュジャホイ)東西文化交流の原点(2)

第28回 2009年09月

前回「徐家匯・東西文化交流の原点-1」では、徐家匯全体の歴史について述べた。しかしその膨大な歴史的遺産のゆえに、個々の施設について詳しい説明を加えることは出来なかった。そこで改めて、代表的な施設がもつ興味深い歴史をもう一度振り返ってみたい。

徐光啓の陵墓―南丹路17号

徐光啓墓徐光啓は1633年11月8日に北京で病死した。崇禎帝はその死を悼んで一日政務を休み、哀悼の辞と葬儀費用を賜った。徐光啓の棺は当時の社会騒乱のため一時上海城外南方の桑園別荘に安置されたが、最終的に1641年、肇嘉浜北原、即ち現在の徐光啓公園内に葬られた。

徐光啓は生涯清廉実直であった。死亡した時も、彼は財産を一切残さなかった。しかし彼の葬儀には、上海の数千人の信者や多くの清朝高官が、カトリック神父と共に参列した。壮大で厳かな葬儀は3日間続いた。た。

徐光啓の墓には彼の妻と4組の孫夫婦が葬られている。彼の息子たちは伝統的な埋葬制度に従い、徐光啓の父親の墓に葬られている。墓の前方と両側には石の牌坊が、参道の両側には、一対の馬、虎、羊の像が建てられた。

徐光啓墓1903年、上海のカトリック教会は徐光啓の受洗300年を記念して、一度破壊された石牌坊を再建し、墓の前に十字架を設けた。1988年国務院は全国重点文物保護単位に指定した。2003年には上海人民政府は徐光啓の死後370年を記念して、300万元以上をかけて徐光啓の墓と周辺を整備した。今は光啓公園となっている。そこは正に今日の徐家匯の出発点となった史跡なのだ。

徐匯公学(St. Ignatius College)―漕渓北路8号

徐匯公学徐匯公学は、揚子江の氾濫により行き場を失った児童をイエズス会が受け入れたことから、1850年に始まった。1878年増加する生徒数に合わせて、新たに3階建ての新校舎を建設し、後年更に1階を建てました。1905年に校舎前面に運動場を併設した。1804年に学校は上院、中院、下院の3段階に分けられ、レベルの異なる教育を施した。学校は”St. Igunatius College”ともよばれ、大部分の教師はフランス人又はイタリア人神父であった。そこでの教育はイエズス会の規則に従ったフランス及びイタリアの教育方式であり、中国の他の教育機関とは大いに異なっていた。生徒は男子学生のみで、学内に寄宿した。彼らは卒業すると、震旦大学(オーロラ大学)か海外留学へと飛びたっていった。

徐匯公学1918年ベルギー人神父と葉氏の共同設計により、今も残る崇思楼が完成した。落成式には廬永祥将軍を始め多くの人々が参加した。外装は花崗岩と赤煉瓦、内装は木材で造られた。正面講堂の扉を軸に左右にコリント式柱が各9本並び、極めて美しい。東西に並ぶ入り口の柱もコリント様式で、柱の頂上に花篭の彫刻がある。

 

1931年徐匯公学は上海市の教育機関に組み入れられ、徐匯中学と改名し、教育と宗教を分離した。1953年以降は、女生徒も受け入れる上海市の名門中学校となっている。1962年には、姉妹校として台北に徐匯中学が設立された。

徐家匯蔵書楼、(Xujiahui Bibliotheca漕渓北路80号)

 

徐家匯蔵書楼は上海語の発音に基づいて“ズカウエイ・カトリック教会図書館”とも呼ばれ、上海最初の宗教的図書館であった。

仏イエズス会の布教は、阿片戦争の結果3名の神父: Claude Gotteland, Francois Esteve, Benjamin Brueyreを迎え上海の郊外・青浦横塘で始まった。しかし余りの遠距離と湿気の多い住環境の悪さに、ゴットランド神父は上海移住を決定する。1947年徐光啓の墓の北東に聖イグナチウス・ロヨラを記念するイエズス会総院が建設され、同時に総院の中の3室を書庫に当てたのが蔵書楼の始まりである。1851年旧徐家匯天主堂が建設され、その後多くの関連施設が建設されると、書庫と閲覧室は幾つかの建物に移り、最終的には1897年3階建ての蔵書楼が完成し、ここに全ての蔵書が集められた。

徐家匯蔵書楼現在蔵書楼は2つの建物から成っている。西棟は元のイエズス階総院で4階建て、9931年に大改修をおこなった。煉瓦と木材の混合建築で4階建て、傾斜屋根を持つ。東側の部屋は外側に廊下がありバルコニーで繋がっている。東棟の建物は元の蔵書楼で、二層の屋根、煉瓦と木材の混合建築。中国、西欧の両方の図書を収納する。上階は洋書コーナーで、ヴァチカン図書館を模して床から天井まで12段の木製書庫を備える。真中に廊下が走り、中央と東西に階段がある。1515年来の20カ国言語(ラテン語、仏語、英語、イタリア語、ドイツ語、スペイン語、オランダ語、ギリシャ語、ヘブライ語など)の蔵書8万冊を収納する。分類法はヴァチカン図書館に習い、百科辞典、辞書、中国学、神学、その他学術文書を収集する。下階は中国語コーナーで、寧波の古代図書館・天一閣の分類方式に従い12に区分されている。集められた年鑑や地誌は12万冊を超える。

こうして蔵書楼は、中国と西欧の両文化の豊かな相互交流を可能とした。イエズス会上海教区長・Claude Gotteland は、イエズス会のメンバーが蔵書楼の書籍収集と発展に努力するよう規則を定めた。その後Angelo ZottoliやHenry Haveret, 中国人・馬相伯などの努力が続き、蔵書楼は大きく発展した。

                                  

徐家匯蔵書楼中でも20年に渡り書籍の収集に努力した徐宗澤の功績は大きい。彼は徐光啓の12代目の孫で、19歳で科挙試験の秀才に合格し、21歳でイエズス会に入会した。彼は欧州で 哲学と神学の博士号を取得した後故郷に帰り、1923年徐家匯蔵書楼の主任となった。彼は同時に“カトリック・レヴュー”の編修主幹を努め、この雑誌は1938年8.13抗日戦で廃刊となるまで続いた。彼の心血を注いだ収集努力により、蔵書は2000科目に増加した。彼は啓明女中と徐匯女中の運営にも参画し、後年両校は合併して上海第四中学となり、多くの逸材を世に送り出した。彼の著書は40冊以上に及び、中でも「哲学史網」、「心理学概論」、「社会学概論」、「社会経済学概論」、「中国天主教宣教史概論」、などが有名である。<写真:徐家匯蔵書楼2 036>

聖母院(Holy Mother’s Garden)―漕渓北路45号

 

聖母院 現在のレストラン「上海老站」は聖母院関連施設の一部である。イエズス会の宣教師・薛孔昭が1843年青浦横塘で始めた修道会は、パリから修道女を招き、Holy Mother’s Garden修道会の指導のもとで、1867年徐家匯で学校や宿舎を含む大規模な建設が始まった。徐匯女子中学、啓明女校、聾唖学堂、幼稚園、育児堂、女工作坊などの施設が次々に建設された。修道会は若い少女たちを受け入れ、1869年から1949年までに600人以上の修道女がここで教育訓練を受けた。ここを出た尼僧たちは、江蘇省、安徽省などに派遣され、神父のアシススタントとして働いた。彼女たちは聖書朗読会を催し、児童教育や教会学校の管理、福祉事業に従事したのだ。

 

1867年創立の徐匯女子中学は、小学部、中学部、高等部と分かれていて、1933年には200名以上の生徒がいた。1904年に設立された啓明女校は、宗教色のない一般学校であった。

啓明女中育児堂は男女両方の児童を集め、6,7歳になると男子は土山湾孤児院へ、女子は女学校と送られ、読み書き、算数、刺繍、レース編み、工芸品制作などを学んだ。聖母院の工房は1930年代には500人以上の女子作業者を雇していた。

 

しかし今これらの施設の大半は壊され、昔の姿を思い出すことは難しい。14棟あった建物も、「上海老站」となった4階建ての純ヨーロッパ風、白壁の建物を残すのみとなった。庭に置かれた古い列車と名前から旧駅舎と誤解され易いが、そこはかつてイエズス会の江南の宗教、教育、福祉活動の中心的な役割を果たした建物のほんの一部だったのだ。

これらは、徐家匯で起こった偉大な歴史のほんの一部である。そこには更に語るべき多くの歴史的事実が残されていると感じざるを得ない。そこで更に2回のコラムを設け、現代に繋がる膨大な文化遺産を辿ってみたい。

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