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徐家匯(シュジャホイ)東西文化交流の原点(1)

第27回 2009年07月

徐家匯天主堂徐家匯はお洒落でモダンな街だ。多くのショッピングモールや大型デパートが軒を並べ、若者があふれる上海で最も賑やかな街だ。最近は付近に高級マンションが次々に建てられたことで益々賑やかさを増し、地元住民ばかりでなく海外からも多くの旅行者を引きつけている。しかし徐家匯はそれだけではない。東西文化交流に果たしたその歴史的役割は、上海に留まらず中国全土に及ぶのだ。

徐光啓像徐家匯の名は、明代の著名な科学者・徐光啓(1562-1633)に由来する。徐光啓は旧上海城内に生まれ、1604年に進士となり宮中の翰林院に入り、東閣大学士となった。彼の生家を示す小さな石碑が、二階建ての貧しい長屋(浦東新区喬家路236~244号・九間楼)の前に残されている。かつて黄浦江と呉淞江の各々に繋がっていた二本のクリーク:肇嘉浜と法華涇は、漕河涇付近で交匯涇という一本の流れとなっていた。その合流点に明朝の学者官僚・徐光啓の邸宅があった。死後彼はここに葬られ、彼の末裔がそこに住んだことから、“徐家匯・徐一族の村”と呼ばれた。

徐光啓は中年で進士となったが、政治的には恵まれなかった。彼は赴任先の天津で農政に携わり、そこで有名な「農政全書」を執筆した。彼は後年宮廷に召し上げられたが、当時明朝は民衆の反乱と満州族の造反に悩まされていて、内部は既に弱体化していた。徐光啓は主張した、「中国が進歩した文明国家に留まるには、仏教と儒教を改革しなければならない。中国文明が再び若さを取り戻すためには、聖人は中国国内だけではなく、外国にもいるのだと言う事を認めなければならない。」彼は西欧の宗教と科学を合体させることで、学問と技術の革新を図ることが必要だと考えた。

徐光啓故居碑しかし17世紀初頭から明朝後期まで、宮廷の権力者は“西欧に学ぶ”ことに反対だった。そこで徐光啓と同僚の運動は認められなかった。1633年徐光啓は71歳で亡くなった。生前かれは宮廷の文淵閣大学士助理に任ぜられた。徐光啓の死後10年して、明朝は最後の皇帝・崇禎帝の自殺により終焉を迎えた。

キリスト教は中国に三度布教を試みた。最後にキリスト教が中国の学者・官僚に浸透したのは、一つにイタリアのイエズス会宣教師・マテオリッチ(Matteo Ricci)によるのだった。徐光啓はマテオ・リッチにより洗礼を受けた訳ではなかったが、カトリックに改宗した最初の中国人であった。彼はマテオ・リッチと共同で西欧の思想・文化の書籍を翻訳した。彼が翻訳した「幾何学原本」はたった6冊に過ぎなかったが、中国人の世界観を根本的に変革するものだった。それらは宇宙を代数により簡単に表現するだけでなく、複雑な宇宙の連続性にまで言及するものであった。

徐光啓墓そのほか彼がマテオ・リッチと共同で著した本に、「幾何学原本」,「測量法義」,「 勾配義」,「泰西水法」などの科学書がある。彼は常に西欧文化に着目し、西洋科学の普及に努めた。彼は政治的には成功しなかったが、当代一の学者であった。徐光啓は、生前また死後までも尊敬を以って“上海の徐光啓”と呼ばれ、国の内外から歴史的に高い評価を受けた。それは彼の政治的な活動のためではなく、彼の東西文化交流に掛けた圧倒的な貢献度の大きさによるのだ。

徐光啓の死後8年経つた時、彼の家族と上海カトリック神父たちは彼の葬儀を東洋・西欧の両方の様式で行った。こうして彼の墓は中国におけるカトリック信者の中心的な位置を占めるようになった。

18世紀、清朝政府が西欧的宗教を禁止すると、カトリックも禁止となり、19世紀列強により不平等条約が締結されるまで解禁されなかった。しかしカトリックが解禁されると、徐家匯は中国におけるイエズス会の総本山としての位置を獲得した。

徐家匯天主堂旧写真カトリックは1607年に始めて上海にもたらされた。それは正に、徐光啓が父親の葬儀のために北京から上海へ戻った時に始まるのだ。彼は帰郷の折土地の人々にカトリックに寄与するよう勧めた。しかし徐家匯が中国のカトリックの中心地となるには、更に250年が必要であった。松江、青浦、川沙、崇明島などの上海郊外には多くの信者がいた。一方フランス系カトリック(天主教)は、未だ市街地の一部に限られていた。カトリック教徒は徐家匯以外でも、廬家湾、董家渡、虹口、楊樹浦、洋涇浜、四川路などに住んでいた。しかし徐家匯は当初余り人に知られていなかった。そこが市の行政中心から遠く離れていたからだ。1847年Claudius Gottland は度重なる要請を受けて、ついに市街地から10キロ以上離れた農地である徐家匯に宣教基地を築くことに同意する。遠くに龍華寺の塔が見えたとはいえ、黄浦江近くの仏国公董局大楼や董家渡教堂は遥かかなたにあった。仏イエズス会の宣教師たちは次々に上海にやってきて、徐光啓の陵墓の周りにある小規模の教会周辺に住み、数十年をかけてそこを中国における西欧文明最大の中心地に育て上げたのだ。

徐家匯天主堂上海経済は元来農業に依存していた。阿片戦争の結果上海が開港されると、産業、商業、不動産業の凄まじい発展が始まり、上海は極東で、いや世界でも最も財政豊かな教区の一つとなった。上海の教会は伝統的な信者の献金制度により巨額の資金を入手したので、大型の建物を次々に建設することがでできた。徐家匯では地元中国人の住宅に囲まれてはいたが、教会の建築群は広がり、発展して独立の街のようになった。1世紀のうちに完璧な形で出来上がったフランス式の総合的な宗教施設群は、中国全土でもここ徐家匯にしかなかった。徐家匯はヨーロッパ文化導入の先端基地となったのだ。

徐家匯天主堂徐家匯の中心は、上海最大のカトリック教会・徐家匯天主堂である。現在の建物は1851年建造の旧天主堂の南側に1910年に建てられたもので、建築に15年を要した。フランス・ゴシック建築の教会堂は、鐘楼は高さ56.6m、会堂は高さ26.6m、幅30m、奥行き83.3m、収容人員3000名で、東洋一と言われた。64本の石柱に支えられた内部の荘厳な姿は、文革時に内装が破壊されたとはいえ、今も訪れる者に厳粛な思いを起こさずにはおかない。会堂の周囲1.5キロ平米は、教会堂地区とか東部バチカンと呼ばれた。解放以前、華山路西側の天福里、王家堂、海星光里などには、信徒1万名が住んでいた。

大修道院1840年代以降、仏イエズス会は徐家匯地区漕渓谷北路沿いに21の宗教的研究施設を建設し、この地区を上海のカトリックの活動と信徒集落の中心とした。天主堂周辺にはイエズス会総院(1847)、大修道院(1843,現・徐匯区人民政府)、聖衣院(1874,現・上海電影製片廠)、イエズス会神学院(神学生のPhD.養成所)、清心修女会などが建設された。

徐匯公学教会はまた、文化事業や教育にも力を入れ、徐匯公学(1850,現・徐匯中学)、徐匯師範(1929),崇徳女校(1867、徐家匯女学校に改名、フラン祖界の貴族学校となる)、啓明女中(1867現・第四中学)、聖誕女中(1923)、類思小学(1914,St. Louis)などを建てた。

カトリックの学術・文化研究所としは光啓社、徐家匯観象台(1872)、徐家匯蔵書楼(1847)、徐家匯博物院(1868)が開設され、清心報社(1887)や聖教雑誌社(1912)、土山湾印書館が、カトリック新聞や出版物の印刷・発行に当たった。

聖母院・上海老站更に社会慈善事業として、聖母院(1869、現・レストラン上海老站)、育児堂(1876)、土山湾聖母孤児院(1855)が建設された。孤児の職業訓練のために孤児院に併設された靴工場、木工工場は、やがて写真、印刷、絵画、ステンドグラスなどを生産する工芸品廠に発展し、カトリックの工芸品生産拠点として中国内外に名を知られた。こうして徐家匯は、中国と西欧を結ぶ一大文化交流センターとなったのだ。今でも上海の多くの建物や施設内に、土山湾孤児院で作成された見事なステンドグラスや彫刻などの工芸品を見ることができる。

徐家匯蔵書楼徐家匯には、フランス・イタリアのイエズス会から派遣された多くの神父が暮らしていた。1884年の統計では、フランス・イタリア・ベルギー神父100名、中国人神父30名、その他に25名の学者と20名の教会助手がいた。徐家匯は正に中国におけるイエズス会の総本部であった。宣教師たちは、南部中国と合肥地区を巡回し、定期的に上海に戻ってきた。そこで大部分の宣教師たちは徐家匯に長く住んだ。彼らは学習・研修に長い時間を取り、周辺地域で説教する必要がなかった。彼らは中国文化の研究とカトリックの紹介に時間を費やした。めったに外部に出かけることはなかったが、中国と世界について深い知識を持っていた。中国人の目に映った彼らの姿は、黒い帽子と長い衣装に身を包み、手に聖書を持って常に祈祷をし、壁の中に閉じこもり外部との交流を絶った奇妙な集団に見えたに違いない。上海の中でも徐家匯は神秘で奇妙な別世界であったのだ。

上海交通大学徐家匯はフランス・イエズス会の直接管理下にあったので、大部分の神父はフランス人で、フランス文化を普及させた。街では学生たちが、フランス音楽やダンス、絵画や体育を学び、フランス語は多くの住民から上品な言語と考えられた。神父たちはラテン語を身につけ、常に知識と技能を披瀝していた。この意味で、セーヌ河右岸の教会がパリの文化センターであったように、上海の中で徐家匯はラテン語文化圏だったと言える。

 

盛宣懐像1897年清朝の高級官僚・盛宣懐は徐家匯の西欧文化の雰囲気に魅了されて、その近郊に南洋公学を設立する。それにより徐家匯の文化的な雰囲気は更に高まった。南洋公学は、交通科と郵政学科を備え、中国の伝統的な教育方針に基づきながら、一方で西欧の先進技術の取得に勤めた。イエズス会により創設された徐匯公学と震旦大学(オーロラ大学)も、中国と西欧の両文化の教育に力を配った。こうして清朝後期の徐家匯は、新時代の教育を担う最新モデルとなった。南洋公学は、政府の支援を受け交通大学となり、中国人産業技術者の揺籃地となった。一方震旦大学は私立であったが、発展して廬家湾に移転し、中国における最も優秀な法律家と医師を輩出した。

 

上海交通大学南洋公学、震旦大学、復旦大学は、実は創立の歴史に係わる一つの共通の出来事を持っている。蔡元培が南洋公学で教鞭をとった際、彼は経済学部の学部長であった。彼はイエズス会の馬相伯の傑出した教育に感銘し、優秀な学生24名を近くにあったの彼のラテン語クラスに派遣した。馬相伯はこれらの学生を寵愛し、彼らが中国の大学生の新世代を代表する者となることを期待した。馬相伯はラテン語を教えながら、これら学生にヨーロッパの大学の先進的な学生自治の思想を吹き込んだ。学生自治の概念に強く目覚めて南洋公学に帰っ学生は、大学が彼等の要望に従い学科内容を変更するよう求めた。1902年、キャンパス騒動が発生。大学管理に参加しようとする彼等の要望が入れられないことで、彼らは南洋公学を去った。

上海交通大学蔡元培は彼らが勉学を続けられるよう、愛国学社を設立、教授陣に著名な中国人教師:章炳麟、呉稚輝、蒋智由などを招聘した。しかし1903年、章炳麟が蘇報紙上で光緒帝をばか者呼ばわりし、革命を推奨したことで投獄されたため、愛国学社は解散に追い込まれた。このとき馬相伯は、自己の財産の全てを投げ打って震旦大学設立した。こうしてこれらの学生は、再び徐家匯に集うこととなった。しかし震旦大学での馬相伯の教育方針は、宗教教育から独立した、何ものにも捉われない自由な学問の追求を目指したため、イエズス会の方針と対立した。自由思想と自由な教育研究に目覚めた学生は、馬相伯を担いで再度大学を去ることとなった。馬相伯は彼らを収容するためあらゆる努力をし、結果的に1905年復旦大学を建設することになったのだ。

徐家匯天主堂馬相伯は徐匯公学の校長をしているとき、イタリア人教師が孔子の古典「十三経」をラテン語に翻訳するのを助け、自らも後年聖書の翻訳を手がけた。弟の馬建忠は「Ma’s Grammar・馬氏文通」で中国語と西欧言語の比較研究をおこなった。このように徐家匯は、正に上海の近代文化の揺籃地であり、東西文化が相まみえる中国の中でも特異な場所として、中国近代史のなかでも特別重要な位置を占めている。

気象楼今回単に名前をあげるに留めた施設の一つ一つは、長い歴史と豊かな物語に彩られている。徐家匯天文台は、経度観測の世界三箇所の基本観測点の一つとして、1926年に世界天文学会から認定された。ここで計測された時間は、上海で使用される時計のごく微量な誤差も正確に正すことができたのだ。

蔵書館は1515年以来の20以上の言語で書かれた8万冊以上の貴重な洋書と12万冊を超える中国語の書籍を保存し、フランス国立図書館、ヴァチカン図書館と並んで研究者にはなくてはならない施設となっている。今も残るこうした施設の数々を巡ると、その量と質、多様性と幅広い社会性に胸を打たれる。華やかなショッピングセンターの陰に隠れて忘れられがちなこれらの文化遺産の大きさに、改めて深い畏敬の念を懐いている。

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