上海お役立ち情報

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ユダヤ教会・レイチェル・シナゴグ(The House of Rachel)

第25回 2009年05月

Rachel Synagogue 東側正面賑やかな南京路の恒隆広場の角を陝西北路に沿って北上すると、新閘路の角(陝西北路500号)に蔓草に覆われたギリシャ復興様式の壮大な建物が現れる。静かな中に荘厳さを漂わせるこの建物は、明らかに周りの街とは異質の雰囲気を持っている。これはユダヤ教会・Ohel Rachel Synagogue で、1920年サッスーン財閥の三代目頭首・Jacob Sassoon により建てられた。

Rachel Synagogue 南側側面サッスーン一族は上海で一大帝国を築いた。和平飯店、グロブナーハウス(現・錦江飯店貴賓楼)、メトロポール・ホテル(現・新城飯店)など、今日の上海のランドマークとなる多くの建物を築いた Victor Sassoon (四代目)の名はよく知られている。しかし Victor の先代・Jacob の名は余り知られていない。しかし慈善事業にも熱心であった彼が上海に残した最も素晴らしい遺産は、彼が妻のために建てたこのユダヤ教会だったのだ。

Rachel Synagogue 西側側面現在それは上海市教育局の一部となっていて、ユダヤ人共同体でもたまにしか利用できない。しかし1920年の創建当時は、上海のセファーディツク・ユダヤ人の宗教活動の中心であった。Sephardic Jews とは、スペイン・中近東を起源とするユダヤ人のことで、Sephardic とは、ヘブル語でスペインを意味した。彼らの歴史は、スペインのフェルディナンド王とイザベラ女王がキリスト教に改宗することを拒んだユダヤ教徒全員を追い払った時に始まった。スペインで行われた過酷な異端審問を避けるために、彼らは祖国を後にせざるを得なかったのだ。スペインのユダヤ人は中近東へ移住し、そこのユダヤ人社会からはエリートとして迎えられた。

ユダヤ人は多くの場合、宗教教育の他に普通教育も受けており、豊かな財力を備えていた。バクダットの資産家として成功したサッスーン一族は、再びバクダット総督の迫害にあいインドのボンベイへと逃れた。そこでインド最大の資産家に成長した。

David Sassoonボンベイとバクダットから来たセファーデイック・ユダヤは、上海に来た最初の外国人であり、そこで巨額の財を成した。1845年、Patriarch David Sassoon は上海に Sassoon Trading Company を設立し、巨額の利益が見込めるアヘン貿易に乗り出した。上海で財を成した他の2人のセファーデイック・ユダヤ人・Silas Hardoon と Ellis Kadoorie も、同じくバクダットからインド経由で上海に来て、当初はサッスーン貿易で働いたのだ。

インドで、サッスーン一族は著名な慈善家でもあった。創始者・David Sassoon は1863~67年ボンベイ近郊の避暑地・プーナ(Pune)にOhel David Sassoon Synagogueと何軒かの慈善病院を建設した。それはボンベイから避暑にやってくる人々のための施設で、David自身も生前そこに住んだ。赤レンガでできたシナゴグはLa Davel(赤いシナゴグ)と呼ばれ、今も使われている。

彼の孫・Jacob Sassoon は1864年ボンベイにMagen David Synagogue を寄進し、更に2棟の小学校を建てた。それらはSir Jacob Sassoon High School, E.E.E. Sassoon High School となっている。更に彼は無料医療サービスの診療所も建設した。

Keneseth SynagogueKeneseth Eloyahoo Synagogueは、同じくJacob Elias Sassoon と彼の兄弟 AlbertによりTaj Mahal近くの土地に、1884年に建設された。それはインドで最も豪華なユダヤ教会であり、シェラトンやヒルトンなどのホテルに近接しているところから、今も世界中からタージマハルを訪れるユダヤ人の礼拝所となっている。

Ohel Leah Synagogue彼らの慈善活動は、インドに限らなかった。David Sassoon が1844年香港に最初の支店を設けると、Jacob Sassoon は彼の兄弟・EdwardとMeyerと共に彼の母親・Leah Sassoon を記念して1901年にOhel Leah Synagogue を建設した。これは香港に現存する最古のシナゴグで、日本軍の占領下では倉庫として使われたが、1998年には6百万米ドルを掛けて当初の優雅な姿を復興した。今も香港島ミッドレベル・Robinson Road 70にある教会は、香港に住むユダヤ人社会の宗教活動の中心となっている。

Rachel Synagogue 西側装飾上海ではJacob 卿は、妻・Rachel を記念してOhel Rachel Synagogue を建設したが、工事完成を2,3ヶ月前にしてこの世を去った。セファーディツク・ユダヤのコミュニティは、その教会をジェイコブ(ヤコブ)卿とその妻・レイチェルに捧げたのだ。壮大なOhel Rachel Synagogueは、エルサレムの方角に向けて建てられており、アジアで最大のシナゴグとなった。収容人員700名は、当時上海にいたセファーディツク・ユダヤ人の総数に合わせた数字だった。

Bevis Marks Synagogue大部分のシナゴグが、中近東の伝統に則って作られている中で、Ohel Rachelのギリシャ復興様式というのは、かなり変わっている。実はその形式は、セファーディツク・ユダヤが1701年ロンドン建設した Bevis Marks Synagogueや,同じく1890年代にロンドンに建てられた壮大なドーム屋根を持つスペイン・ポルトガル人の教会を模して創られたのだ。1290年エドワード1世により英国を追われたユダヤ人は、1656年クロムエルの改革により英国への移住が許された。Bevis Marks Synagogueは、英国に移民した多くのセファーデイックのために建てられた英国最古のシナゴグで、300年の歴史を超えて、いまも使われている最も権威ある教会となっている。

Rachel Synagogue 入口上海のRachel Synagogueの内装は、当時最高の富裕層が出席するに相応しい、極めて豪華なものであった。見事なクリスタルのシャンデリア、磨きのかかった木製ベンチ、バクダッドからもたらされた19世紀のトーラ(ユダヤ教経典)30巻などで、祭壇入口の枠を飾る豪華な大理石の柱、トーラを収納するためエルサレムの方向に向けシナゴグの壁に設けられた聖櫃などがあった。それはある意味では、余りに豪華過ぎたのかもしれない。何故ならユダヤ教教師・Rabbi Hirsch は、当時のRachel Synagogue の余りの豪華さに不快感を示し、暫く離れていたとも言われているからだ。Ohel Rachel は、世界中の多くのシナゴグと同様、単なる礼拝所に留まらず、ユダヤ人社会の中心であった。

ユダヤ人学校構内には今は失われてしまったMikvah (泉水池―礼拝用洗面所)と、上海ユダヤ学堂があった。後者は現在上海教育局の一部になっている。1900年、D.E.H. Abraham により創設されたユダヤ学堂は、1932年にHorace Kadoorie の資金提供を受け、上海ユダヤ人小学校となった。

ユダヤ人学校生徒ベルリンから難民として上海に来たBetty Grebenschikofffは、次のような思い出を語っている。彼女と姉とは当初虹口の難民キャンプの学校に通った。そこには余りに多くの違った国の子供たちがいるのに彼らは驚き、友だちになるに時間が掛かった。そのうえ、そこの子供たちは、しばしば彼女のドイツ訛りをからかった。そこで彼女と姉とは、Seymour Road(現・陝西北路)の上海ユダヤ学堂に転校した。彼女の家は貧しく、月5米ドルの学費を払うのが大変だったが、ユダヤ学堂に転校してみると、そこでは女性徒が着ているサージの制服は、いつもきちんとアイロンが掛けられていて、スカートのプリーツはナイフの刃のように尖っていた。戦争中の困難な状況の中でも、ユダヤ人学校の教育環境は極めて整ったものだったのだ。この学校は1951年には閉鎖され、いまは上海教育局の一部として使われている。

Rachel Synagogue 聖櫃レイチェル・シナゴグは、上海が日本軍に占領されていた間、馬小屋として使われたため、内部はひどい破壊を被った。シナゴグの礼拝に出席していたAba Toeg 一家は、日本軍がシナゴグを占領していた間はトーラと礼拝用ベンチを保管し、終戦後は会堂復興を手伝った。その後Toeg 一家はトーラをイスラエルに搬送したので、今は見ることはできない。こうしてシナゴグは中国政府に引き渡された。

 

その後シナゴグは主に倉庫として利用され、その間事務所としても使われた時期もあった。1998年、当時の上海市長・徐匡迪と米国人ラビ・Arthur Schneider とが会談し、シナゴグの復旧活動が始まった。復旧は、ユダヤ教会の支援要請を受けて来訪したAba Toeg の記憶を頼りに行われ、一部が完成した。長らく放置されていたせいで、建物は構造上多くの損傷を受けていた。2002年には、シナゴグは、World Monuments Watch (世界崩壊危機建造物)のリストに加えられた。

 

Rachel Synagogue 南面現在シナゴグは上海教育局の構内にあり、ユダヤ教会としては定期的な利用ができない。単に、Hanukkah (バビロニア帝国で起こったユダヤ人抹殺計画を未然に防いだエステルを記念する祭り) とPurim (BC300年アンテオコス4世時、異教の神で汚された神殿を浄化した運動を記念する「明かり」の祭り)を含め年4度のみ、ユダヤ人共同体に利用されている。

 

香港ユダヤ・クラブユダヤ人とユダヤ教に対する中国政府の対応は微妙である。産油国である中東のアラブ諸国との関係が、問題を複雑にしているのに違いない。一方香港では、4軒あるユダヤ教会のうち3軒にラビ(ユダヤ教師)が常駐し、ユダヤ人の宗教活動を支えている。同じ Jacob Sassoon の建てたOhel Leah Synagogue は、隣にはコミュニテイセンターを併設し、3~4千人と推定される香港のユダヤ人社会全般の活動を支援している。元来このセンターは、あのKadoorie 一族が資金を出して1905年に建設されたものだ。上海の Rachel Synagogue にもこうした自由な活動が許される日がくるのであろうか。

Rachel Synagogue 北面つる草に覆われたOhel Rachel Synagogue は、奥まった庭の木立の中にいまも威厳のある古老のような姿を見せている。訪れる人もなく、その歴史を知る人も少ない。しかしそれは、1820年代後半バクダットを追われたサッスーン一族のアジア進出の歴史と、更にその昔、イベリア半島を後にしたセファーデイックの500年に及ぶ壮大な歴史ドラマを今に伝えているのだ。

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