上海お役立ち情報

Shanghai Useful Information

国際飯店・パークホテル

第22回 2009年01月

国際飯店とYMCA人民広場の北端・南京西路170号に建つパークホテル(現、国際飯店)は、1980年代まで上海の最も高い摩天楼であり、一世代に渡り上海の黄金時代の近代化を象徴する建物であった。ヒューデックの設計により、四行儲蓄会(Joint Savings Society Bank)が建設したアールデコの摩天楼は、1933年竣工、24階建て(地上22階、地下2階)、高さ83.3m。褐色のタイル張りの建物は当時最も高いビルで、1980年代上海賓館が建設されるまで、これを越える高層建築は上海にはなかったのだ。今日ホテルは周囲の高い建物に囲まれているが、今でも70年前と同様に衝撃的なほど現代的で、特異な姿を誇っている。

建物の外観は独特である。ほっそりしていると言うよりガッシリしていて、頂上は驚くほど先細り僅かに内側にカーブしている。張り出している訳でも、筆の先のように先細る訳でもなく、子供の作るレゴの彫像のように無造作に積み上げられたように見える。それは、建物全体が地上にどっしりと根を下ろし、建物全体が空に舞い上がるように見えるようヒューデックが設計したからだ。そのため上部はわずかにセットバックして、尖塔状を示すようになっている。

国際飯店全景外壁の彫刻も変わっている。地上から3階までは、キラキラ輝く山東省青島の崂山で採れた黒色花崗岩が貼られ、それから上は同じく青島産の正方形の焦げ茶色の化粧タイルで覆われている。

当時建築家は、外灘に並ぶ煉瓦造りの新古典主義の建築群の替わりに、争ってコンクリートを主体にした高層の新しい建築を目指して、次々に新しいデザインを実験していた。ヒューデックは、1927年~28年にアメリカの建物のスケッチに出かけ、高層ビルやホテルを視察して回った。ヒューデックは国際飯店の建設では、1924年建設の米国最初の高層ビル、Chicago Tribune Bldg. を建設したRaymond Hoodに倣ったのだ。

聯合大厦1923年、四行儲蓄会(Joint Savings Society)が設立され、その10周年記念事業として、建設が始まった。設計は、前年の1932年に大光明大戯院(現在映画館)を完成させたヒューデックが続いて担当することとなった。しかし建設は遅れ、オープンは1934年にずれ込んだ。理由は、当時ヒューデックが四川中路215号に四行儲蓄会総本部の建築も手掛けていたからだ。その総本部は、現在も浦東発展銀行のビルとして利用されており、旧上海の代表的な銀行建築となっている。(四川中路261号、聨合大厦、9階建て鉄筋コンクリート造り、英国新古典主義様式。上部にビザンチン式ドームを頂く。)

ロビー天井国際飯店の建物はInternational Hotel と呼ばれ、元来四行儲蓄会のために建てられた。そこにはア-ルデコ調の本部があり、上階だけがホテルとして使われた。元来あった高い天井のロビーは1990年代の改築の際取り壊されてしまったが、そこはホテルよりむしろ銀行のように見えたのだ。

ロビー彫刻パネルホテルは、上海の上流階級が熱狂して賭けに興じた競馬場から道路1本越えた所にあり、絶好の位置を占めていた。そこで所有者は四行儲蓄会を移動させ、ビル全体をホテルにする方がずっと儲かると考えた。そこで Park Road の名前に因んでPark Hotel と改名した。International Hotelでは余りに面白みが無いと思ったのであろう。

ロビー天井Park Hotel は、四行儲蓄会により外国人の利用を目標に投資され、米国人により運営管理された最初の西洋式ホテルとなった。部屋数208室、上海で最初の電動エレベータを備え、客室には自動消火装置、飲料水は地下200mから汲み上げられていた。更にHospitality Industry を目ざす若者を養成するための学校も併設された。

ロビー天井当初から、パークホテルは大規模な集会と夜会の場所であった。外装ばかりでなく内装にも凝り、細部まで豊富なアールデコ調で飾り、豪華な室内装飾の200室の部屋とスイートを誇っていた。最上階には今はない伸縮自在の移動式屋根を備えたナイトクラブがあり、裕福な常連客が星の下でダンスを楽しんだ。日本軍占領当時も唯一営業が許され、夜な夜な将校たちが通ったのだ。日本人ダンサー・マンデラ嬢も度々出演したと自伝に書いている。

1935年には、北京オペラの梅蘭芳と映画女優、胡蝶が文化交流のためソ連へ出発する前夜の壮行会ガラが行われた。同じ年には、中米間初の長距離電話サービスの開通式が同ホテルで開催された。また1945年には、上海の初代市長・陳毅がそこで就任式を行った。

1950年代を通じて、パークホテルは外国要人の宿舎と外国人用の集会所として利用された。だが1960年代になると、恐らく退廃の象徴と考えられたため、ヒューデックの傑作は政治的なスローガンで覆われることとなった。

当初の概要スケッチと写真と比較して、後年の改築状況を見てみよう。ホテルは、入口にあった大型のひさしが無くなったが、屋上を覆っていた広告塔が最近取り払われたことで、建物がほぼ当初の外観を留めていることが判る。

レストラン1935年13階にあった屋上庭園は、14階の宴会場に改築され、移動式の屋根で覆われることとなった。現在その屋根は、天井に設けられたガラスパネルにより後方から照明が当てられている。1950年代の改築の際には、2階のダイニングが伝統の中国式デザインに変えられた。


レストランパークホテルの優れたインテリアは60年間無瑕で残されていたが、1990年代の2度にわたる破壊的な改築により元来の細部は全て失われた。元々の部屋はぶち壊され、どこにでもある一般的な客室に変えられた。しかし1997年には、アメリカ人デザイナー、George Grigorian の勧告に従い、優美な外装に合わせて内装をアールデコ様式に統一することとなった。





公式測量基準点パークホテルは、設立当時上海の人々から驚きの目で迎えられてから70年経った今でも、全上海の中心となっている。ロビーにある小さなテーブルは、1950年上海市が市の平面図を作り直す際、測量技師により国際飯店屋上の真ん中に立つ旗を市の公式の地理的中心としたことを今に伝えている。パークホテルは、過去も現在も上海全市の中心なのだ。

建物の設計者・Ladislous Hudec は、1893年オーストリア・ハンガリー帝国(今日のチェコ共和国)に生まれた。ブタペストの Royal University を卒業すると、ハンガリー王立建築家協会のメンバーとなった。1916年彼はオーストリア・ハンガリー陸軍に入隊したが、不幸にもロシア軍の捕虜となりシベリアの収容所に送られた。1918年ハバロスクからロシア内陸へ移動中の囚人列車が中国国境へ差し掛かった際に、Hudec は列車から飛び降り逃亡、満州経由で国際都市・上海へ辿り着いた。

上海は、豊かな才能に恵まれてはいたが無一文のこの若者に、比類ないシャンスを与えた。1918年ヒューデック は何とか上海に辿り着くと、建築会社、R.A.Curry で働き始めた。そこで彼は福州路のAmerican Club(米国商工会議所、1924年設立)や、江蘇路155号のMc Tyeire School (現・上海市第三女子中学)など歴史的建造物を設計することとなった。

ヒューデック顧客が争って彼を名指しで求めるようになると、1925年彼は独立して自己の会社を設立、彼の遺産となる上海の建築の傑作を次々と創り始めた。Grand Cinema(南京西路の大光明大戯院、現、大光明電影院), Moore Memorial Church (西蔵中路の中西女塾、現、沫恩堂)、Country Hospital(宏恩医院、現・延安西路の華東医院), Wu Tongwen House (銅仁路の呉同文邸宅、現、上海市城市規格設計院)、その他の多くの建物を創り、その数は1941年までに合計37に及んだ。彼は1927年~28年にかけ米国を旅行し、米国の近代建築も視察した。いまに残る国際飯店は、その時の偉大な遺産である。彼は1958年カリフォルニアで亡くなった。

YMCA2階メザニン・フロアーの奥の一角には、ヒューデック自身によるホテルの概要設計図や建設中の写真が飾られている。ロシアの捕虜となりシベリア送りとなったヒューデックの写真もある。それらを見ると、意に反して故郷を遠く離れ、その結果この上海で偉大な仕事を残すことになった彼の数奇な運命を思わずにはいられない。1930年代、上海は世界で5番目の人口を抱える大都市となった。国際飯店の周りにも、金門大飯店、大光明戯院(現・映画館)、YMCA(現・市体育倶楽部), 上海レースクラブ(現・上海美術館)と、次々に大型の建築物が建てられた。国際飯店に飾られたヒューデックの写真は、彼が生きた時代の上海を知るうえで、数少ない貴重な記録となっているのだ。分かりにくい場所に申し訳なさそうに飾られているので見落としがちであるが、是非訪れてみたい所である。

見る者は彼の数奇な運命に思いを馳せ、租界時代の上海を懐かしく振り返ることができるに違いない。

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