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極東一の屠殺場・工部局宰牲場(殺牛公司)

第21回 2008年10月

屠殺場正面以下は東方航空機内誌に掲載された洪崇恩氏の一文を、島根が抄訳したものである。堵殺場は2007年に展示場に改装されたため、元の姿を見ることができなくなった。そこで洪氏の文章と、私が改装途中で撮った堵殺場の最後の姿を示す写真と併せて、この特異な建物の歴史をご紹介したい。

工部局の旧家畜屠殺場

屠殺場中央塔工部局が設立した4F010家畜屠殺場(新亜集団産業所属、現・展示場)は、沙涇路10号、29号1933にある。ここは第4次優秀歴史建築物として、上海市が最近認定した建物の一つである。この正24角形の独特な形の古い建物は、かつて“良心的屠殺”方法に意を用いた最大規模の屠殺場であった。更に近代的な食品衛生観念にさえ適合したものであった。それは上海、或いは中国全土でみても、極めて珍しい優れた産業建築物であったのだ。それは正に“極東一の優秀建築物”と呼ぶに相応しい。

 

極東一の屠殺場

屠殺場中央塔外観160年前の上海では外国人植民者が急増し、市街区域が急速に拡大した。そのため食肉供給の重要性が増すこととなった。しかし当時の私設屠殺場は設備が貧弱で、衛生状態が極めて悪かったので、度々疫病が発生した。しかし1929年代までは、本格的な食肉製品の需要はそれ程多くなかったため、屠殺場は各地に分散しており、その規模も小さかった。そこで工部局は、虹口湾近くの沙涇路に18中国畝(120アール)以上の用地を確保し、393万元以上の資金を以って新しい屠殺場の建設を始めた。建設は1931年に開始され、1933年11月に完成した。英国の建築家により設計されたこの屠殺場は、1934年1月から利用が開始された。

 

完成した畜産屠殺場は、敷地面積8,677平米、建築面積29,491平米を擁し、極めて雄大で大規模なものであった。メデイアはこぞって“東洋で最初の屠殺場”と書きたてた。当時その規模の屠殺場は、世界に3箇所しかなかった。3番目は沙涇路10号のもので、2番目は米国に、1番目は英国にあった。沙涇路10号の屠札場からみると、3箇所とも同じ設計士の手から生まれた姉妹的な建物だったのだ。

 

外周から中央塔へ新しい屠殺場の内部は、主に数棟の建物に分けることが出来た。メインの屠殺場は3階建ての強化コンクリート製で、12中国畝(80アール)あった。屠殺用の作業ラインは2キロに及び、燻蒸消毒、殺菌、脂肪煮沸、凝血、梱包、収納、保管、テスト用の作業場から解剖室まで、全ての機構を備えていた。

  

外周塔高い生産性は、大規模な設備によって可能となった。1930年代、工部局の畜産屠殺場は一日当たり牛300頭、子牛100頭、豚300頭、ヤギ500頭、130トンの以上の各種の最上級の食肉を効率よく生産する能力を備えていた。数年後、冷凍設備を含む第2期拡張工事が完成るすと、屠殺後の1,000トンの食肉と90万ポンドの冷凍肉を貯蔵する能力を持つこの屠殺場は、正に極東における最大の食肉製造所、冷凍保存所となった。この屠殺場で生産された肉は、上海の需要を賄っただけでなく、中国各地、更に海外にまで大量に販売された。

 

中央塔最上階改革解放後も、この屠殺場は食肉製造所として存在を続けた。しかし1970年代に、生物化学・薬品工場として再組織され、2002年には完全に操業を停止した。一方この工場と同時期に建てられた英国の屠殺場は、いまだに従来通りの機能を果たしている。

精巧で比類ない近代産業ビル

屠殺場上空写真この古い屠殺場は、今や小川と新たに建てられた住宅に囲まれている。隣の九龍賓館の高所から見下ろすと、屠殺場は、中庭を中心に東西南北を4棟の建物に囲まれた4角形の四合院のような建築物だと分かる。庭の真中には、四方の建物と廊下で繋がった24角形の塔のような建物がある。

 

中央塔への連絡通路強化コンクリートでできた24角の大きな建物は、極めてユニークで、中国でも他では見られない。その建築様式は、実用的でいて、且つ優美である。堂々としているが、派手なところがない。よく注意して観察しないと、その設計者の完璧な意匠に気がつかない。一見すると無造作に並べたように見える細部の装飾も、よく見ると当初から十分な計算のうえに成り立っているのだ。建物全体は高低さもまちまちで、廊下は曲がりくねり、極めて複雑な構成になっている。まるで建物全体が迷宮のようだ。各々の建物の床には、その用途に合った異なる建築材料が使われていた。しかしその後、建物全体の整合性を保つという名目で、建物各階の床に一時的にコンクリートを流し込んだ。そのため75年も経ったいま、これらのコンクリートを剥がすのは、一般的なドリルでは困難となってしまった。

 

牛道工場の小さな暗い扉を抜けて、建物のあちこちを歩き回わり、障壁のない“家畜通路”を注意深く観察すると、家畜の汚れを落とす自動洗浄機、円形の身体検査ホール、梁なし円柱(別名、梁なし帽子柱)に支えられた加工処理場、自然の通風孔を備えた汚物排出管などが見える。これには感嘆せざるを得ない。流れるような作業工程、精巧な全体構成、ずば抜けた各部署の設計。こうした建物が、70前の上海に既に生まれていたのだ。

中国の動物愛護精神の先駆

中央塔への連絡通路いま世界中で、動物愛護は叫ばれている。しかし20世紀初頭の上海で、そうした意識が既に実践されていたとは、一体誰が想像できるであろうか。いま眼前にある屠殺場は、かつて動物愛護精神を実践する先駆者であった。今日屠殺場を歩くと、この時代、動物愛護精神に基づく規範がどの様なものであったかを示す数々の痕跡を探し出すことができる。

 

牛道過去の記録と老人の話によると、当時の屠殺場の作業工程はほぼ次のようなものであった。牛や豚を積んだトラックが到着すると、それが陸上輸送であれ船上輸送であれ、家畜は1,2日間の休息の権利を与えられた。そこで、切迫する死の恐怖に怯えることなく寛いだ時を過ごすと同時に、体内から排出する毒素を軽減する役目も果たした。この措置は、単に博愛的であるばかりか、食肉の品質と味を向上させるにも役立ったのだ。

 

中央塔への連絡通路翌日、家畜は隊列を組んで屠殺場1階に入る。その後家畜は、高い壁に囲まれた登り坂の通路を静かに登って行く。通路の床面には特殊な滑り止めが施こされていて、斧で荒削りに切断した板を貼ったり、セメントで作った多くの溝が掘られていた。家畜が2、3階にある個別の加工処理場の扉を抜けると、そこには、つるつると光るモザイク模様の床が広がっていた。更に中の門にある横棒に触れると床が開く落とし穴構造となっていた。家畜は知らず知らずに個別の加工処理室に滑り下りていく。そこでは手に電気棒をもった専門家が待ち構えていて、それを家畜に押し当てる。こうして家畜はたちどころに昏睡状態に落ち入った。その後、知覚を失った家畜は即座に作業ライン上に吊るされ、ベルトコンベアーで最終地点まで運ばれて、天井から床に下ろされる。

中央塔内部最初の処理は、“屠殺主任”による解体だ。彼らは厳重な審査を通った優秀な技術者が選ばれていた。彼らは最小限の切開で血液を抜くことができた。家畜の心臓は一刀の下に貫かれた。その後家畜は長い処理工程に向かう。切断、肉の種類別処理、腓骨、洗浄。これら全てを通じて、家畜は苦痛を感じることなく“清潔で迅速な”処理が施された。処理工程全体が、家畜に対する動物愛護の精神に貫かれていたのだ。

 

中央塔内部抗日運動が勃発すると、屠殺場は日本軍により接収され、上海市立第1屠殺場と改名された。蘇州河南岸の孤島のような土地は、ぎゅうずめの家畜飼育場となった。黄牛(アカウシ)、水牛、羊、ヤギが屠殺場の臨時飼育場一杯に押し込められた。家畜は餌や飲み水が不足していただけでなく、孤島内で炎天下に晒され、互いに噛み付きあう苦痛にも耐えなければならなかった。家畜たちは、この時から死の前に過ごす一時のパラダイスを失くすこととなったのだ。

現代食品衛生観念の模範

中央塔内部古い屠殺場の作業道を見て回ると、度々下方向に向かう分岐道を目にする。かっての作業員に訊くと、それらは病気の家畜を選別するために特別に設けた通路だと分かった。病気の家畜は即座にチェックされ、この通路を抜けてその他の家畜と区別されて、ブラックリストに載せられた。この屠殺場では、科学的な原理原則に基づき、食肉に対する衛生学上の基準が間違いなく適用できるよう、屠殺場全体で適切な処理基準を定めていたのだ。

 

焼却塔病気の家畜や不要な肉、内臓や毛などの廃棄物を処分するため、屠殺場は構内の一角に処分場を設け、焼却炉を置いた。廃棄処分の設備は現代的で、利用可能な脂肪分は蒸気で直接煮出して油分を抽出する。それを産業用油として工場に送り、石鹸その他の製造に当てた。病気の家畜や廃棄物はすべて焼却され、高い煙突から煙として放出された。こうして環境汚染を防ぐ工夫が施こされた。更に、建築家はこれら焼却炉や煙突、その台座や作業場全体の外観などに精密で芸術的な装飾を加え、典型的なバロック様式で仕上げた。そこで焼却炉は、屠殺場と共に上海の優秀歴史建造物に加えられたのだ。

中央塔内部階段追記:Whenever Shanghaiに毎月「上海にいた日本人」をお書きになっている陳祖恩先生によると、工部局の食品管理は非常に厳しく、公共租界内の肉屋が扱う上質の牛肉には、すべて円形の証明印が、羊・豚・子牛の肉には三角形の証明印が押されていた。印鑑には「Killed Municipal Slaughter House」、即ち「工部局堵殺場」の検印が刻まれていたそうである。それなら、4F010家畜屠殺場で生産された肉には、正にこの検印が押されていたに違いない。工部局の基準を満たすには、販売店も厳格な衛生管理と監督を受ける必要があった。工部局は食肉の生産から販売まで、近代的な衛生管理を徹底させ、住民の健康管理を図っていたとは、1930年代という時代を考えると驚きを禁じえない。逆に70年以上経った現在、中国の食品衛生管理が大きな問題となっているのは、真に残念の一語に尽きる。

 

新しい名称1931年から45年まで子供時代の14年間を上海虹口地区弥勒路で過した林京子は、「ミシェルの口紅」の中で、第二中部日本尋常小学校に通う途中、毎朝150~160頭の牛がクーリーに引かれて屠殺場に行くのに出合ったと懐かしく振り返っている。かつては数え切れない豚や牛、ヤギがそこを通って食肉となり、上海やその他内外の市場に供給された屠殺場の通路を、今は“19参Ⅲ老城坊”となった展示場の訪問者が登ってゆくのだ。変わり行く時代を止めることは出来ないのに、ただ懐かしさがこみ上げてくるのは、何故であろうか。

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