上海お役立ち情報

Shanghai Useful Information

百楽門舞庁・Paramount Ballroom

第16回 2008年4月

百楽門全景静安区の愚園路と万航渡路の交差点にあるダンスホール・百楽門は、1949年中国解放以前は全中国唯一の国際的な娯楽場で、極東一の豪華なダンスホールと考えられていた。1932年オープンし、英文名 Paramount Hall から百楽門と命名された。1930~1940年代を通じた人気スポットで、けばけばしく、同時に魅惑的な上海のナイトライフの見本だったのだ。この舞庁は、当時の VIP 、名士、エリート集団を引きつけてきた。1936年チャーリーチャップリンが上海を訪れた時、妻を連れて訪れたのも、ここであった。張学良も好んで度々訪れた。

1階エレベータホール1931年に、中国人商人 顧聯承 は銀約70万両(3万5千kg相当)を使ってカジノをオープンした。ホールの外装、内装は古典的アールデコ様式でデザインされた。それは1930年代に最も流行した最先端のデザインだったのだ。

4階舞台当時パラマウントは上流階級の社交場で、特に西欧式の学校に学び、西洋文化に強く影響された学生たちの社交場だった。1940年代初期には、ロマンテイックな上海の黄金時代を表す代表的な場所となった。前衛的な建築様式、近代的な設備、上海の古いダンス音楽と Jimmy King にリードされた中国人ジャズバンドがあった。

ダンスホールとしては、フレンチ・クラブとパラマウントが最も人気が高かった。両者は広々とした、十分にスプリングの効いたフロアーを備えていて、そこでは、羽のように敏捷に動くことができた。

4階全景しかしパラマムントの小ホールのフロアーは、更に魅惑的であった。1階のダンス・フロアーには、雇われダンサー(タクシーダンサー)がいた。2階には、テーブル席のあるバルコニーがあり、1階のダンス・フロア-を見下ろすことができた。階段の端からバルコニーにかけては、上海中で唯一、床にガラスを張った小さなダンス・フロアーがあった。そこでは、ガラスの下からカラーの照明が当てられ、音楽のリズムに合せてカラフルなライトが踊っていた。

4階全景当時の上流階級の生活は、極めて洗練され優雅であった。そこでここを訪れる紳士は、セビロとワイシャツに身を固め、所属する社会階級に相応しい十分な装身具を身に着ける必要があった。女性は伝統的な柄の上品な“旗袍”-チャイナドレスを着ていたが、それは柔らかい織物に絶妙なカットが施されていた。

Jin Ni は当時人気のある歌手だった。またJimmy Kingのバンドは“Walk Way style”のジャズバンドといわれ、パラマウントの成功に大いに役立った。何故ならジャズは1940年代に大流行し、上海はアジアの中心都市としてその流行の中心でもあったからだ。

エレベータ前写真真っ昼間、太陽がまだ空高く上っている時分でも、パラマウンントの中は真っ暗だった。螺旋階段を登り、左手に曲がってダンスホールに入ると、窓という窓は全て黒い布で覆われ、まるで真夜中のように思われた。

4階Foyer当時上海は“東洋のパリ”と呼ばれたが、別名“東洋の魔都、聖書に出てくる背徳の街”ソドムとゴモラ”とも呼ばれた。ここには独身男性が求める全ての娯楽があった。革命と国共内戦の動乱を通じ、数々の危機や不況が押し寄せたが、それらを乗り越えて、上海は常に世界で最も魅惑的で輝いたナイトライフを提供し続けた。キャバレーや賭博場、劇場、御茶屋、ダンスホール、歌声喫茶などが、無数の明るいイルミネーションの下に、溢れるほどのお客を集めていた。Avenue du Roi Albert (陝西南路)にはハイアライ球戯場があり、毎夜数千人の白人や黄色人種が賭けに夢中になっていた。グレイハウンド犬が走るドッグレース場もあった。

ダンスシューズしかし上海の最大の魅力は、キャバレーであった。上海の男は、10セントか、最大でも1ドルで女達とダンスが踊れた。無論値段は、キャバレーの格や名声で異なった。お客は最初にチケットを買う。お気に入りのダンサーを自分のテーブルに呼べば、追加料金を払わなければならない。女がサイダーを飲むと、勘定書にはシャンペン料金が着いてくることになっていた。

4階客席上海では街中にダンスホールがあり、評判の良くないダイム(10セント)ダンスホールもあった。お客は先に一連のチケットを買い、一枚をちぎってお目当てのダンサーに渡す。彼女らは、中国人女であったり、後にはロシア人のダンサーだったりした。低級なダンスホールでは、チケット一枚は10セントもしなかった。ある者は半値・40角にも値切れた。

1階シャンデリア日本占領下(1937~1945)、パラマウントは衰退期を迎えた。パラマウントはスパイと裏切り者たちに一時の娯楽を提供し、代わりに派手な悶着を起こす場所に成り下がった。1954年には、映画館「虹都戯院」に変わった。更に1978年には虹都影劇院と改名、1999年に百楽門影劇院となった。こうしてアールデコの豪華な内装は、すっかり姿を変えてしまったのだ。

1990年代に入り、街の発展と開発の波が上海に押し寄せてきた。しかしパラマウントは依然として手付かずのまま、忘れられていた。

2階デイスコ全景2001年9月、台湾人企業家・趙世聡は約2千5百万元(3百万米ドル)を注ぎこんでこのダンスホールの復興を試みた。近代的な上海に過去の魅力を復興し、新しい娯楽を創造しようと試みたのだ。この改築工事のお陰で、パラマウンントは過去の栄光を取り戻した。半世紀を経て、全てが昔のように蘇った。歴史的な建物に響く古い上海のダンス音楽は、前世紀の香を伝えている。老人たちは、ここに青春の思い出を見出し、過ぎ去ったよき時代の郷愁を楽しんでいる。一方現代の若者も、全盛期のダンスホールの雰囲気を楽しむと同時に、デイスコも楽しむことができる。

4階ダンスフロアーパラマウントは総面積3500平米。2階と3階はデイスコ・ホールとなり、4階がかつての百楽門を再現したクラブとなっている。4階には特徴のある金色の肘掛け椅子を配し、上質の食事と共に、プロのダンサーによる舞踏と歌を楽しむことができる。

4階壁装飾上海の古いダンスと音楽は、ここを訪れる者を過去の優雅なダンスホールの時代に連れ戻してくれる。この歴史的な建物に、当時の魅惑的な匂いと輝きを取り戻どそうとした試みは、極めて貴重で興味深い。しかし残念ながら現代の上海のナイト・ライフの中心は、若い女性を集めたカラオケ・バーでの、お客と女性のもっと直接的交流と接触に移っている。パラマウントに代表される過去の娯楽は、それにどう立ち向かうのか。是非頑張って欲しいと願っている。

租界きってのトップダンサー・マヌエラは、日本人だった。

かつての上海のナイトライフを語る場合、百楽門のダンサーではないが、忘れてはならないショーダンサーがいる。ミス・マヌエラだ。実名を山田妙子という。彼女は1939年競馬場傍の「カサノバ」でデビュー以来1945年の日本軍敗戦まで、租界の高級クラブで人気No. 1のショーダンサーだった。上海に限っていえば、満州映画協会の李香蘭もマヌエラの人気にはかなわなかったのだ。

マヌエラ肖像写真マヌエラは、ハロルド・ミルズ(China PressやChina Daily Newsに芸能記事を寄稿し、自らも週間娯楽新聞「オリンピアン」を発行する租界で最も著名な米国人記者)をマネージャーとしていた。更に、ナチの迫害を逃れて上海・楊樹浦に移り住んだホモのユダヤ人ダンサー、ジャスタス・パスコラ(元パリ・モンマルトルのムーランルージュのプロダンサー)から、本場のスパニッシュダンスの特訓を受けた。

マヌエラ彼女は大柄ではないが均整の取れた肢体をもち、広い額の下でくっきりと孤を描く弓形の眉、情熱的な輝きを放つ印象的大きな黒い眼、強い意思を示す細かく尖った鼻と大きな口元、それに浅黒い肌で、一見したところ東洋人と白人の混血のように見えた。そこでミルズが広めた「ハワイで生まれ、バンコクに移住、オリエンタルダンサーとして世界的なボンベイの教師に師事した」など、でたらめな経歴がまかり通ったのだ。彼女が日本人だと知る者はほとんどいなかったといわれる。

マヌエラは、当時一流のアーテイストが出演する高級ナイトクラブ:デディーズ、ファーレンス、マンダリン、アリゾナ、アルゼンチナなどで引っ張りだこであった。顧客は租界の著名な銀行家や船舶会社の支社長などで、日本人でも犬養健(515事件で暗殺された犬養本堂の息子)や上海駐在日本軍憲兵隊司令官などが、彼女を贔屓にした。彼女の舞台衣装は、マレーネ・デートリッヒの衣装を一手に引き受けていたユダヤ人・エルビン・レスティーナが担当したのだ。あるときは、畳2枚分もある巨大な彼女の顔写真が、外灘のパレスホテル(現・和平飯店南楼)の傍、朝鮮銀行の壁を飾った。

彼女は、1940年来港したエフレム・サーキン(米国ユニバーサル映画副社長で、ハリウッドきっての名プロデユーサー)から、翌年に計画中のミュージカルへの出演を依頼された。だが1941年日本軍の真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争により、ミルズとマヌエラが米国へ渡る予定のプレジデント・クーリッジ号は、急遽上海入港を取り消した。そのため二人は夢のハリウッドでデビューするチャンスを失ったばかりか、硝煙たなびく上海から抜け出す機会も逃すこととなった。

マヌエラ彼女は戦後、日比谷でナイトクラブ「マヌエラ」や新橋で料亭を開いていたが、華麗な彼女の過去を知る人は、極めて少なかった。私にマヌエラの話を紹介してくれた元SBF会員、チッソ上海の総経理・田中正俊氏は、かつて彼女の経営する料亭で80歳を超えた彼女を見たことがあるといっていた。

ルーズベルトの刺客彼女は元来、松竹楽劇部ダンス科の第一期生で、与えられた芸名「水の江たき子」を嫌らって三浦ウメと芸名を交換したのだ。彼女が日本~釜山~奉天~大連~上海と遍歴した過去と3度の結婚など波乱に富んだ一生は、抜群に面白い西木正明の著書「ルーズベルトの刺客」に、当時の時代背景と共に詳しく述べられている。

李香蘭・山口淑子の例を出すまでもなく、マヌエラの伝記は、戦前の上海が日本といかに密接に結びついていたのかを、改めて我々に思い起こさせる。百楽門は、当時の上海の華麗なナイトライフの一端を今に伝える、数少ない建物の一つとなっているのだ。


なお詳しい歴史は、Prime Travel のホームページに掲載したので、興味のある方は是非ご参照下さい。
www.primetravel.com.cn

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